半村 良 セルーナの女神 目 次  わがホモンクルス  巨大餃子の襲撃  汗  マンションの女  子 犬  奸吏渡辺安直  伊勢屋おりん  おなじみの夢  セルーナの女神 [#改ページ]   わがホモンクルス  俺《おれ》がその美人にひっかかったのは、五月の生暖かい晩だった。 「あら……」  女はTBSのほうから歩いて来て、十歩ばかり先からそう言って左手をあげて見せた。  誰だっけな……と思う間もなく目の前に近付いて立ちどまってしまった。 「ええと……」  いくら相手が妖艶《ようえん》な美女だって、知らないものを知ってるとは言えなかった。喋《しやべ》ればすぐにバレてしまう。  それにしてもいい女だった。俺好みの美女。いや、美女はみんな俺好み。 「どなたでしたっけ」  すると女は妖《あや》しく微笑した。妖艶な美女だから妖しい。怪しく笑うとお化けになる。 「ごめんなさい。つい声をかけたりなんかしちゃって」  着ている物も履《は》いているものも、申し分なかった。もっとも、履いているものと言ったって靴《くつ》のことで、それ以外の履きものは見えるわけがない。 「ご一緒していただけません……少し」 「ええ」  仕事だって断わらないのに、このテの誘いを俺が断わるわけがない。 「あなたのファンなんですの、あたし」 「へえ……」  物好きだなあと言おうとしたが、折角だからやめた。 「ご本、全部読んでます」  うれしかった。 「面白いですか」 「ええとっても。お写真、集めてますのよ」  まさか、とそのとき思った。まさかと思って眉《まゆ》に唾《つば》でもつければよかったのだが、美人は得で美人と付合うのは損をする。答えようがなくて、黙ってニヤニヤしていた。 「ねえ」  女は甘ったるい声になり、 「もうお判《わか》りでしょうけれど、あたくし主人がおりますの」  と言った。どう見ても人妻風ではあった。それもかなり大物の男の妻らしい。 「そのようですね」 「人生って、まっすぐな一本道だとはお思いにならないでしょう」 「ええ」 「あたくしはあなたの大ファン。つい声をおかけしてしまうくらいのね。だって、よく知ってる方のように感じてしまったんです。お付合いしてくださいませんか」 「ええ」 「よろしい……」  女は俺をのぞき込むように言った。その目の色で情勢がなんとなく呑《の》み込めた。女は人妻宣言をしている。で、よろしい……と来た。責任をとらなくてもいい豪華な一夜の幕が切って落されたのであった。  ホテルへ行って寝て、その夜のうちに別れて家へ帰ってまた寝て起きたら朝になっていた。ゆっくり書けばポルノになって警察に呼ばれる。  とにかく事件はそうしてはじまった。  二日後、いかめしい制服を着た男が三人と、ダークスーツの男が一人、俺の仕事場へ乗り込んで来た。アシスタントの竹ちゃんもいなくて俺一人のときだった。 「何ですか」  ドアをあけると、押し込み同然にドヤドヤと入って来てしまったので、俺は呆気《あつけ》にとられた。でも靴はちゃんと脱いでいた。店内改装したばかりのところへ土足で踏み込まれてはたまったものではない。 「君に申し渡したいことがある」  頭分格《かしらぶんかく》のダークスーツが、格式ばってそう言った。 「何です」  ダークスーツの奴《やつ》は内ポケットから紙きれをとり出した。俺はドキリとした。逮捕状そっくりに見えたからだ。俺はなぜか自分あての逮捕状を一度だけ見たことがあるのだ。 「半村良。右の者をホモンクルス欠如者《けつじよしや》と認定する」 「ホモンクルス……」  俺がどんな素《す》っ頓狂《とんきよう》な声をだしたか判ってもらえるだろうか。ホモンクルスと言えばあなた、発生学の初期にあった前成説のうちでも、一番素朴な奴ではないか。  生物はすべて卵から生まれ、卵の中には成体と同じ形をした小さなものがひそんでいるという説だ。 「今どきホモンクルスだなんて」  俺は嘲《ちよう》 笑《しよう》してやったが、相手は一向に動じなかった。制服を着た三人は、まるで俺の逃亡を阻止しているみたいに、両足を少し開き、胸を張って軽く腕組みをして立っていた。 「光学機器の高度な発達が、ホモンクルスの実在を証明したのだ」 「見たいもんだな、そのホモンクルスって奴を。精子の中にいるはずだぞ」 「ところが君のにはいなかった」  ダークスーツの奴が憐れむように言った。 「嘘《うそ》だよ。子供が二人いるもの。見せてやろうか。俺そっくりだ、可哀そうに」 「科学は進歩している。昔の前成説と同じとは限らない。とにかく現在の君の精子にはホモンクルスは全《まつた》く認められない」 「年かな、もう」  俺はふざけたつもりだったが、相手は糞真面目《くそまじめ》に答えた。 「年齢には関係ないことが証明されている。ホモンクルスの欠如は全く体質的な問題である」 「まあいいや。ホモンクルスどころか、虫そのものが一匹もいなくたってもうかまわないんだからな。浮気しても安心さ」  ダークスーツの男は気の毒そうな顔をして見せやがった。 「ホモンクルス欠如者の認定をされた者は、性交を禁止される」 「なぜよ」  俺はとびあがらんばかりに驚いて叫んだ。いや、本当は少しとびあがった。だってそうだろう。今後飯を食うなと宣告されたらどうする。歩くなと言われたら、喋るなと言われたら、息をするなと言われたら……。セックスを禁止されるのは、それを全部ひとまとめにしたのよりまだ悪い。 「ホモンクルスがいないくらいのことで罰みたいなことを受けちゃたまんないよ」 「軽々しいことではない」  男は俺を叱《しか》った。叱られると俺はいつでもびっくりして素直になる。反抗心が頭をもたげるのはたいてい目の前に相手がいなくなってからだ。  しかしこの場合は例外だった。ことは今後セックスが可能か否かにかかっている。 「なんでそんなに重大なんだよ」  勇を鼓して言った。 「ホモンクルスのない男がセックスをすると、やがて人類は滅んでしまうじゃないか」 「違う。違うよ。それは間違ってる」  俺は夢中で言いつのった。 「本当にホモンクルスがなければ、俺に子供が作れるわけがないじゃないか。ホモンクルスがなくて、どうして俺そっくりのホモンクルスなしの子供が生まれるんだい。ええ、この判らず屋め」 「そこの説明がむずかしい」  男はいやに知ったかぶった顔で、尊大に言った。 「男はその精子の中に次に生まれるホモンクルスをたくわえているが、そのホモンクルスもまたその次に生まれるホモンクルスをたくわえている」 「そのくらい知ってるよ。アダムとイブがリンゴを齧《かじ》ったときからこの世のおわりまで、ホモンクルスはずっとつながってるんだ」 「それなら説明し易いな。最新の光学技術の粋を集めた電子顕微鏡で観察したところ、君のホモンクルスは次代がすでに欠如していたり、三代目で消えていたりしている。今いる君の二人の子供たちは、うまく次代入りの精子が命中したおかげで生まれて来たわけだが、君には三代目くらいまでしかないんだ」 「ちょっとうかがいますがね。俺のホモンクルスを見たと言ったね。どこで見たの。どうやって俺の精子を採集したんだい」 「採集だなんて、おたまじゃくしみたいに言うな」  男は権威を侵されたような気がしたのか、憤然としていた。 「二日前、君は我々の調査部員に接触したはずだ」  俺は唖然《あぜん》とした。たしかに接触した憶《おぼ》えがあった。あの妖艶な美女に違いなかった。それならどっぷり根もとまで接触している。  男はざまを見ろと言いたげな表情になった。 「ホモンクルス欠如者に認定された者は、今後いっさい性交を禁止される」 「そんな……どうすればいいんだ」 「自分で処理したまえ」  男たちはぞろぞろと帰って行った。俺はまた一人きりになり、深川《ふかがわ》の洋子や並木橋《なみきばし》の鈴子や錦糸町《きんしちよう》の昌江、椎名町《しいなまち》の愛子、代田《だいた》の律子に蒲田《かまた》の英子、堀切《ほりきり》の静枝に入院中のヒロミなどの顔を次々に思い泛《うか》べていた。  セックス禁止。それじゃ何のために生きて行くんだ。十七のときに吉原《なか》へ登楼《あが》って以来、そのために働き、そのために食い、そのために生きて来たのではないか。 「冗談じゃねえや」  俺は吐きすてるように言った。やれるならやってみやがれ、言論の自由どころじゃねえぞ。ぺンクラブへ提訴してやる。性交の自由は基本的人権の中で最も基本的なものじゃないか。  案の定、相手が目の前にいなくなると、俺は猛然と腹が立って来た。受話器をとりあげてまず641の局番をまわした。深川の洋子に電話をするのだ。 「もしもし、だあれ」 「俺だ」 「何か用」 「今晩行くぞ」 「だめ」 「どうしてだ」 「あなたとはもうだめ」 「だからどうして」 「だめったらだめ。さよなら」  ガチャン。  今度は463局。並木橋の鈴子。 「もしもし」 「あら久しぶり」 「今晩行くぞ」 「困るのよ」 「どうして」 「ごめんなさいね。またいずれ」  ガチャン。  631局は錦糸町の昌江。 「もしもし俺だ」  とたんに、アハハ……と笑いやがってガチャン。 「どうなってんだ」  俺は茫然《ぼうぜん》とした。こんなことができるんだろうか。焦《あせ》って次々に電話をかけた。椎名町だめ、代田だめ、蒲田もだめで堀切もだめだった。入院中のヒロミは最初からだめだと判っているからかけなかった。 「変なの……」  俺は畳の上へ坐り込んで壁に倚《よ》りかかった。ひしひしと孤独感が湧《わ》いて来た。誰も相手になってくれない。俺はいつの間にか膝《ひざ》を立て、両手でそれをかかえてうつ向いていた。何のことはない、ホモンクルスの姿勢と同じだ。今更 女房《にようぼう》に言い寄るのもおかしいし……。女房ともっと親しくしておくべきだったと、俺は後悔の臍《ほぞ》を噛《か》んだ。  でも、夕方になると気をとり直した。今までのがだめなら、また新しいのをこしらえればいいのだ。とにかく突破には銀座《ぎんざ》だ。それでだめなら古巣の新宿《しんじゆく》へまわろう。そう思って夜になるのを待ち、勇んで出撃した。  ホワン、ホワン、ホワン。  タクシーに乗って高速道路で霞《かすみ》が関《せき》に向かっていると、警笛を鳴らして緊急自動車が追い抜いて行った。 「あれ……何の自動車だい」  俺は運転手に尋ねた。見たことのないタイプの緊急自動車だったからだ。屋根の上の回転灯が、赤でも青でもなく、乳白色だった。 「ホモンクルセーダースですよ」 「ホモンクルセーダースぅ……」 「変なものがはやりますねえ」 「はやってるのか」 「いえ、はやるってえとおかしいですけど、何も人さまの子種の心配までしなくったっていいじゃありませんか」  運転手は笑っていた。 「で、おじさんはどうだったの」 「何がです」 「ホモンクルセーダースに精子の検査をされたかってことさ」 「あたしなんか」  運転手はウフフ……と笑った。 「もう年ですしね。女なんか関係なくなっちゃった。上の奴はもう大学を出て車のセールスマンをしてますよ。その次のは去年大学へ入りましたがね、これが高校から一発で入ってくれたんです。何たって、今日び大学だけは出てませんとねえ」  ホモンクルセーダースの車はずっと先のほうで、乳白色のライトを回転させている。 「あの車は何の為《ため》なんだろう」  俺はホモンクルス欠如者がセックス禁止命令に違反したのを逮捕しに突っ走っているのかと思った。 「運んでるんだそうですよ。血液銀行なみにね」 「何を……」 「きまってるじゃありませんか」  運転手はニヤニヤしていた。 「何を運んでいるんだ」 「だから、ナニですよ。男の」 「あ、そうか」  俺は納得した。どこかのばかがホモンクルス調査員と接触したのだ。あの緊急自動車はザーメンを超高性能電子顕微鏡のある場所へ運んでいるに違いなかった。  俺は不吉な感じに襲われた。霊柩車《れいきゆうしや》に行き会うと不吉なことが起るというジンクスがあるではないか。でも、高速道路でタクシーをUターンさせるわけには行かない。  結局銀座へ着いてしまった。しかし銀座には何の変化も起っていないようだった。いつものようにピラニア通りから飲みはじめて、しだいに新橋《しんばし》のほうへ移動して行く。 「よう」  七丁目の小さな店のカウンターにへばりついていると、入って来た客が俺の肩を叩《たた》いた。 「あ、ちょうどいい所で会った」  俺はうしろを向いて言った。高速度ホモ・ルーベンスと綽名《あだな》のある肥《ふと》った男だった。 「ホモンクルセーダースというのを知ってるかい」 「何言うとるんや、今ごろ」  高速度ホモ・ルーベンスはあざけるように俺を見ながらとなりに坐《すわ》った。 「ウイスキーの水割りをくれんか。バレンタインの21年を飲ませてえな」 「ねえ、ホモンクルセーダース」 「せつくな。認定されたんと違うか」 「されちゃったんだよ」  とたんに高速度ホモ・ルーベンスはケタケタと笑った。 「おい、聞いたか。半公はもうセックスできんのやぜ」 「笑いごとじゃないんだ。ホモンクルセーダースって、どういう組織だい」 「ホモンクルスのない男をみつけて、セックスさせんようにする組織や」 「それは判ってるよ。大きな組織かい」 「ただ今拡張中、いうとこやな。どんどんでこうなっとる。次の選挙には候補者をたてるそうや」 「俺、どうしたらいい……」 「知るか、そんなこと。女に追いかけられんですむんやから、気楽なもんやないか。ゆっくり原稿を書いてたらいい。金もかからんしくたびれもせん。金残ってしゃあないな」  高速度ホモ・ルーベンスはまたうれしそうに笑った。 「いい気分や。一人競争相手が減ったさかいな」  俺はギョッとした。たしかにその通りだ。俺がホモンクルスの欠如者に認定されたら、ほかの男がその分楽しい思いをすることになる。  俺は高速度ホモ・ルーベンスを睨《にら》んだ。相手は知らん顔をしている。  つい最近、俺はその男と或る女を張り合った。俺のほうが優勢だった。しかしもう違う。俺は競争から脱落したのだ。  高速度ホモ・ルーベンスと呼ばれるだけあって、その男は情報収集力において遥《はる》かに俺よりまさっていた。何しろ、今日銀座で会ったかと思うと、翌朝の新幹線で大阪へ戻り、ひと仕事して全日空のジェット機で羽田へとんぼがえりし、夕方六時からのパーテーにまた顔を出すと言った調子なのだ。それでいてSFマガジンの原稿など俺より二十日も先に渡すという。内外の文学は言うに及ばず、天文、気象、化学に物理、すべて最新の知識を身につけて、人後におちるのはマージャンの腕前だけという凄《すご》い男である。  それに各界に顔が広くて、政治力があり、箕面《みのも》の森林公園の中にいる野猿《のざる》の群れの政権争いに、黒幕として介入しているという噂《うわさ》も流れている。 「てめえ、はかったな」  俺は怒気を含んで言った。 「何をはかりましたんや。わては何も知りまへんで」  どうもさっきから関西弁を使っていると思った。恰好《かつこう》のいいことを言うときは標準語を使い、都合が悪くなって来ると当たりのいい関西弁で逃げるのがこの男の得意技《とくいわざ》であった。  俺はその店をとびだし、以前から触れなば落ちん風情《ふぜい》を示していたホステスのいる店へ駆けつけた。 「おい、今晩|空《あ》いてるかい」  席につくとさっそくその女をかたわらに引きつけて耳もとへささやいた。  コクリ、と女は頷《うなず》いた。潤んだ目をしている。しめたと思った。何がホモンクルセーダースだ。無駄なことに精出すがいいや。 「あした友達の絵描《えか》きの個展を見に行くことになっている。一緒に行こう」 「ええ」 「十一時ごろだけれど、それじゃ早いか」  ホテルのチェック・アウトはたいてい十一時だ。生娘じゃあるまいし、そう言えば今夜の予定がどうなるか判るはずだった。 「いいわ」  ほら見ろ、ホモンクルセーダースめ。 「トコちゃん、電話です」  若いボーイが呼びに来た。 「ほら、行っといで。今晩はおデートできませんって丁寧《ていねい》に断わるんだぞ」  俺は上機嫌《じようきげん》で言った。トコちゃんは席を離れると入口のほうへ去った。  一人で飲んでいると、やがてトコちゃんが帰って来た。 「ごめんなさい」  変に顔をこわばらせている。 「どうしたんだ」  するとトコちゃんは俺に体を押しつけて来て、泣声で言った。 「ママがいけないって」 「え……」  何のことか判らなかった。 「何がいけないんだ」 「あなたとはだめだって」 「ママにそんなことを言う権利がどこにある。ママを呼んで来い、ママを。ここのママは古い付合いだ。何でそんなことを言うのか説明させてやる」 「やめてよ、あたしが困るわ」 「いいから呼んでこい」  トコちゃんはまた席を立ってママを呼びに行った。 「どういうわけなんだ」  トコちゃんと二人で俺の席についたママに、きつい声で尋ねた。 「しかたないのよ」  ママも困り切った様子であった。 「相手がホモンクルセーダースさんじゃねえ」 「女は関係ないだろう」 「あるわよ。うちの大事なお客さんは、たいていホモンクルセーダースに入っていらっしゃるの。何と言ったって人数が多いし、払いのいいお客さんばかりだから、いくら半ちゃんでもこればっかりは勘弁してちょうだいよ。トコちゃんだっていずれはお店を持つんでしょう。そのときホモンクルセーダースのお客さんが一人も来なかったらどうしようもないわ」  ママはトコちゃんを脅すように言った。 「商売の邪魔になるか」  俺はがっかりした。バーやクラブの世界をたくさん小説にして稼《かせ》がせてもらっている手前、こういうときは物判りのいい顔をしなくてはならない。 「しようがない、あきらめるよ。それにしても、俺のことがもうこの店にも知らされてるのか」 「ついさっきね。ホモンクルセーダースというのは、そういう連絡は厳重なの」 「ついさっきって、どのくらい前だい」 「半ちゃんがお店へ入って来たとき、その電話がかかってたの」 「あ……」  高速度ホモ・ルーベンスの顔が目に泛《うか》んだ。彼なら俺がここへ来そうなことに気がついたはずだ。トコちゃんが俺に対して触れなば落ちん風情を示していたことを知っているのだ。 「食いものの恨みは恐ろしいというが、博学多才な人格者も、いろにからめばこわくなるもんだな」 「半ちゃんはやりすぎだったのよ。誰だって競争相手が減れば悪い気はしないわ」 「でも、足を引っぱることはない」 「ホモンクルセーダースに入ると、怪しい人を本部に連絡する義務があるんですって」 「怪しい人……」 「ホモンクルスがない人よ」 「どうして見わけるんだ」 「そういうのを見わける講習会があるんですって。箱根のホテルへ合宿して、豪勢なものらしいわ」 「高速度ホモ・ルーベンスは入ってるのかい。ホモンクルセーダースに」  ママは笑った。 「幹部よ、知らなかったの。講習会の講師をしてるそうよ」 「あん畜生」  俺は口の中で言った。  しかし、それが謀略であるとは思ってもいなかった。高速度ホモ・ルーベンスはホモンクルセーダースに入っているが、別に俺を狙《ねら》いうちして、ホモンクルスがあるのに欠如者の烙印《らくいん》を押させてしまうようなたちの悪いことまでするはずがない。そう信じていた。  結局、銀座がだめで新宿へまわる予定が、セックス禁止のショックでつい飲みすぎてしまい、そうなればもうホモンクルスもサンタクルスもあったものではなく、新宿へまわる気力、体力、時間ともに失って翌朝は二日酔で目覚めた。  ブーッとブザーが鳴っている。俺は二日酔の重い頭を持ちあげてドアへ向かった。 「どなた……」 「吉川です」  吉川はたくさんいる。どこの吉川かと思いながらドアの錠を外《はず》すと、以前べ平連などに関係していたルポ・ライターの吉川の顔があった。 「お、久しぶりだな」 「元気……」  吉川は部屋へ入った。 「二日酔だね」 「そう」 「さっそくだけど質問」 「いいよ」 「半さんはキンピラゴボウに何をいれる……」 「キンピラゴボウ……」 「そう。キンピラゴボウ」 「ゴボウさ」 「ほかには……」 「ニンジンにきまってるだろ」 「あ、やっぱり」 「キンピラゴボウはゴボウとニンジンだよ」 「じゃあ会に入って」 「何の」 「ニンジン入りキンピラゴボウを守る会」 「何だそれは」 「キンピラゴボウのキンピラは、金《きん》の平《たいら》とか公《おおやけ》の平とか書いて、坂田の金時の子供のことなんだ。剛勇無双だったから、キンピラ糊《のり》とかキンピラ足袋《たび》とか、強いことをあらわす品物の名によく使われたらしい」 「何を言いたいんだ」 「で、キンピラゴボウだけどさ、広辞苑《こうじえん》によると、牛蒡《ごぼう》を細かく刻んで胡麻油でいため、醤油《しようゆ》と砂糖で煮つめた煮上りに刻み唐辛子をかけた料理で、強精作用があると考えられていたから、キンピラの名が付いたと書いてある。ね、ニンジンなんか入ってないんだよ」 「なぜだろう。本当はニンジンをいれないのかな」 「ニンジンいれたほうがおいしいよね」 「うちでは昔からニンジン入りだ」 「調べて見ると地方によってニンジンが入ったり入らなかったりする。西のほうはどうもニンジン抜き地帯みたいだけど、東京は圧倒的にニンジン入りだ」 「ふうん」 「で、ニンジン入りキンピラゴボウを東京文化のシンボルとしていつまでも保存しようという趣旨の会なんだけど、案外入会者が多くてね。次の選挙には東京地方区からこの会を基盤にした候補者をたてることになったの」 「新聞にどう略して書くんだろう。長いぜ少し。吉川英太郎(ニンジン・キンピラ会。新)か」 「ニンキン会でいいよ」 「本気か」 「本気。実を言うとね、ホモンクルセーダースなんかは、最初から選挙を狙っているんだ」 「ホモンクルセーダースがか」 「政党支持なし、っていう無政党票が大勢をきめる時代になっちゃったからね。主義主張なんかじゃ票は集まらない。ホモンクルセーダースもいろんな手を考えたんだけど、結局何でもいいということになって、自分たちを批判しそうな連中を抑えつけ、その連中を逆用して自派の勢力を伸ばすことにしたんだ。批判しそうな連中をかたっぱしからホモンクルス欠如者にして、セックスを禁止しちゃう。なに、その人物たちの周辺の女に圧力をかければいいんだから、案外たやすいのさ。で、そういうのがいると、まわりの男はたいていもうかった気になる。内心ニヤニヤして、これで俺のほうへも女が余分にまわって来る、なんて考えちゃうから、ホモンクルセーダースに好感を持つんだよ。ライバルを決定的にモテなくさせるために、ホモンクルセーダース公認候補に投票するってわけよ。うまい手だろ。選挙がおわったら、ホモンクルスなんてどうでもいい。次は次でまた新しい、あんまり政治的じゃなくてみんなの気持を擽《くすぐ》るような組織を作りなおせばいいんだ」 「よし、俺はそのニンジン入りキンピラゴボウを守る会に入るぞ。東京育ちはニンジン抜きのキンピラゴボウなんて、ばかげてると思うに違いない」 「立候補してくれる。実はそれで来たんだ」 「立つ立つ。絶対に立つ。立って立って立ちまくるぞ」 「有難い。さっそく事前運動開始だ」 「立ってホモンクルセーダースに目に物見せてやる。わがホモンクルスに誓って、ホモンクルセーダースを粉砕してやる」  俺は決然として立った。 [#改ページ]   巨大餃子の襲撃     1  天井《てんじよう》の鏡に冴子の白い裸身が映っている。男は腹這《はらば》いになって煙草《たばこ》を吸っていた。 「ねえ」  女は上を向いた儘《まま》、天井の鏡の中の男に言った。 「糖尿病ってほんと……」  男は煙草を灰皿の底で揉《も》み消しながら答えた。 「ほんとだよ」 「嘘《うそ》……」 「医者が言ったんだ、間違いないよ。そう言えばどうも調子がおかしいと思った」  冴子は裸の両手を上へあげ、手首をだらりとさせてこまかく振りはじめた。 「糖尿になるとセックスが駄目になるんですって……」  男はくるりと体の向きを変えた。天井の鏡には全裸の二人の真正面が映っている。 「よせよ、準備体操みたいだ」  男は怯《おび》えたような目で手首を振る冴子を見た。 「準備体操だもの」  冴子はニヤリとして見せ、両足も上にあげた。足首をまわしている。 「おどかすな。冗談じゃないぜ」 「糖尿が相手じゃ頑張《がんば》らなければ。だって、普通じゃ駄目なんでしょう」 「あ……」  男はあお向けに寝た儘、部屋の中を見廻した。 「それでこんなホテルへ誘ったのか」  ラブ・ホテルの一室なのだ。低いダブル・ベッドがあって、シーツ類もカーペットも全部ピンク。四方の壁と天井が鏡張りになっている。 「見て」  冴子は腰に両手をあてがい、肱《ひじ》を支えにして腰を浮かせると、すらりと伸びた両脚をまっすぐ上へ揃えて言った。 「ちゃんと見ててよ」  男は鏡の中の足の裏を見ていた。 「いち」  冴子は掛声をかけるとその脚をVの字にひらいた。 「に」  閉じる。 「さん」  開く。 「し」  閉じる。 「いち、に、さん、し。いち、に、さん、し」 「ごくろうさん」  男は笑った。 「だめよ、真面目に見てなきゃ」  冴子は叱《しか》り、 「いち」  と言った。その儘で次の掛声が出ない。 「見える」 「うん」 「駄目……」 「あのな、お前」  男は左足を使ってVの字に開いた冴子の両脚を払った。直立させた冴子の下半身がベッドに倒れて、ベッドが少し揺れた。 「そんなもの、いきなりモロに見せられたってどうってことはないんだよ」 「あら、ほんと……」 「そうさ。いきなりモロじゃ」 「なんだ、そうなの」 「手続きがいるのさ。見ろ」  男の目が鏡の中で自分の下半身に移る。冴子の視線もそれに従う。 「そうみたい」  冴子は笑った。小さいのが藪《やぶ》に隠れている。 「糖尿って言っても俺のはまだ大したことない」 「謙遜《けんそん》してるの……」 「ほんとさ。酷《ひど》いのはどうか知らないけど、別にセックスが駄目になっちゃうわけでもないみたいだ。ただ、何て言うのかな。そう、精神の集中力が悪くなってるんだ。長い時間何かに熱中してられないんだよ。すぐなんだか知らないが、白けて来ちゃうんだ。セックスは大丈夫でも、白けたんじゃどうにもならないだろ」 「こうやると白けちゃうの」  冴子はそう言うと、素早くまた両手を腰にあてて両脚をVの字にした。  男はじっと鏡をみつめた。 「そうでもねえかな」  真顔で言う。 「どれどれ」  冴子は両脚をおろす反動を利用して起きあがり、実物をのぞき込んだ。 「それが白けるって言うんだよ」 「でも、少し感じたみたい」 「そうか……」 「変化あり」  冴子は手を出して掴《つか》むと、スタンプを押すように、一度だけ上から下へ動かした。 「痛い。痛いよ、馬鹿」 「痛いの痛いの、飛んで行け」 「真面目にやれ」  男はひん剥《む》かれたり伸ばされたりして憤っている。 「前戯してあげる」 「そっとやれよ」 「いつもしてもらってるんだもの、たまにはお返ししなくちゃ。ねえ糖尿ちゃん。ここからお砂糖が出て来るの……」 「別に砂糖が出て来るわけじゃない」 「角砂糖、それとも氷砂糖……」  冴子はそう言うと顔を伏せた。短くカットした髪が、しばらくの間揺れ続ける。 「甘いだろう。糖尿病だもの」  冴子は籠《こも》った声で、うう……と言い、その儘首を横に振って見せた。 「あ」  男は口をあけ、一瞬目を大きく開いた。 「甘いか」  冴子がまた首を横に振る。男は息をつめたようだった。そしてまたしばらく間を置いてから、 「甘いだろう」  とわざと聞く。冴子は心得て首を横に振り続ける。男の息づかいが少し荒くなった。 「痛て」  冴子が顔をあげた。 「ちょろいのね」 「きいたよ」 「ずっと熱中してはいられないのね」 「そんなみたいだ」 「じゃ急がなきゃ」 「もう少しいいじゃないか」  冴子は鼻声になる。 「だって、駄目になったら困るもの」 「どうして。まだ何もしちゃいないよ」 「女って、そうなのよ」 「どう……」  冴子は男の上へのしかかって行った。 「男の人をこういう風にしてあげると、自分も感じちゃうの」 「ほんとか」  男は疑わしそうに冴子の体の下で手を動かしている。 「あ」 「ね」 「ほんとだ」 「うん……駄目よ。これじゃいつも通りになっちゃうじゃない。病気だからサービスしようと思ってるのに」 「悪い悪い」  男は手を引っこめた。 「も一度やって見せてくれないか」 「うん」  冴子は体を起し、顔を伏せようとする。 「違うよ。準備体操だよ」 「いや、もう」 「してくれよ」  男は冴子の肩に手をかけて引き倒す。 「だって」 「いいじゃないか。準備体操だ」  冴子は今度は何やら気の進まぬ様子で、それでも両手を腰にあてがった。 「ほら」  男に言われてゆっくり両脚を天井へ揃《そろ》えてあげる。 「いち」  Vの字。 「に」  閉じる。 「さん」  Vの字。 「輝いてますなあ」  男がうっとりとした顔で言う。冴子は眉《まゆ》を寄せて目をとじ、下唇を噛《か》んでその儘の姿勢を続けていた。 「苦しいか」 「いいの」 「どうして目をつぶってる」 「いやだもの」 「目をあけろ」  冴子は目をあけたが、自分のほうを見ないで男のを見ていた。 「あれ欲しいの」 「どれ」  男は一瞬気付かずに間の抜けた返事をし、すぐ気付いて微笑した。 「これか」 「あ、動いた」 「動くさ」  男は体を横に向けた。 「こっちのほうもいい眺《なが》めだ」  上体を不自然な形に折り曲げているので、二つの白い丘も見慣れぬ形に盛りあがっている。  男が唇《くちびる》を寄せた。冴子は鼻声を出し、右肩をちょっとあげて言った。 「こっち側も」  男の唇が移動する。冴子の両脚がVの形の儘シーツの上に落ちた。  しばらくは言葉も要らない。肌《はだ》と肌が会話していた。  あ、と言う声が冴子の口から洩《も》れはじめる。あ、は次第に間隔をせばめて来る。 「今が最高よ」  冴子は両手を男の体に巻きつけてささやいた。 「これ以上進みたくない気分。ずっとこの儘でいたいわ。一生このベッドをおりたくないの」 「ベッドをおりない……」  男は冴子の形のいい鼻の先に自分の鼻を軽くこするようにして言った。もっときつくこすっている場所も別にある。 「どこかの雑誌にそんな小説のシリーズがあったっけ」 「駄目よ」  冴子はどこかへ力をいれたようであった。 「白けちゃうの……」 「糖尿のせいさ」  すると冴子はきつく目を閉じ、下から体をゆすりあげはじめた。 「そうだ、その調子だ」  男は冴子の動きを愉《たの》しむように言った。男から去りかけたものが戻って来たらしい。冴子はまるで自分自身を苛《いじ》めているようだ。自分で体を煽《あお》り、自分で悲鳴をあげ続ける。 「角砂糖が出るかも……」  男は途中まで言い、冴子に体重をあずけると一気に走った。  冴子はたっぷりと満足したようだった。     2  ラブ・ホテルを二人は堂々と腕を組んで出た。ちょうど通りがかった三人組の酔っ払いが、ひどく愛想のいい顔で二人に手をあげて見せた。冴子は釣《つ》り込まれたように軽く頭をさげ、少し遠ざかってから男に訊《き》いた。 「知ってる人……」 「知らないよ、あんな連中」 「あら、だって挨拶《あいさつ》したわ」 「ホテルから出て来たからさ」 「なんだ、からかったのか」 「そうでもないさ。俺達を祝福してくれたんだろう」 「まさか。結婚式じゃあるまいし」 「あそこから二人で出て来れば、何をして来たかすぐ判るもの。祝福さ」 「からかわれたのよ。あなたって、案外人が好いのね」 「祝福をこめてからかったのさ」 「そうかしら」  ゆるい坂があり、それを下るとバーや小料理屋が並んでいる。その先は電車の駅だ。 「取締まるよりいいだろう」 「取締まる……あたしたちのセックスを……」 「うん」 「そんなことできるわけないじゃないの」 「今にそうなるかも知れない」 「ほんと……」 「うん。ラブ・ホテルの営業を認めなくすればいいんだからな」 「そんなことしたらどうなるのよ。あたしたち、どこですればいいの。おうち……」 「だろうな。屋外でやれば今でも取締まられる」 「トラブルが増えるわよ。知らせないでいい人にまで知られることになっちゃうもの」 「セックスは結婚してから。ちゃんとしてない二人は駄目です」  男はわざといかめしく言う。 「じゃ、ソープなんかも駄目ね」 「当然さ。ただし、芸者さんなんかと偉い人がやるのは自由」 「どうして」 「警察官より偉ければいいの」  冴子はケタケタと笑った。 「じゃ、あたしは駄目だわ」 「どうして」 「今まで言わなかったけど、うちのおやじ警察官よ」  男は足をとめた。 「まさか」 「ほんとよ。あたしが総理大臣の奥さんになったとしても、おやじには一生頭があがらないもの」 「やれやれ」  男はがっかりしたように言った。 「そうか、お父さんはお巡りさんなのか」 「嫌《きら》い……」 「いや、そんなことない。お巡りさんは好きだよ。俺達の生活をちゃんと守ってくれてる。ほんとにご苦労なことだよ。でも警察は好きじゃない」 「判るわ、その気持」 「学者さんは尊敬するけど学界は嫌いだ。お医者さんもいいが医学界はいやなんだ」 「日本人は好きだけど日本国は嫌い……」 「そう。中国人は好きだが中国は嫌いだという政治家だっているしな」 「共産主義がどんなものか勉強しなきゃいけないけど、共産党に入ったら勘当するって」 「君のお父さんかい」 「ええ、弟がそう言われてるの。大学生よ」 「何か食おうか」 「おなかすいたわ。頑張《がんば》っちゃったんですもの」  坂をおりた二人は小さな中華そば屋の戸をあけた。 「いらっしゃい」  肥ったおばさんが言う。 「俺、餃子《ぎようざ》でビール」 「あたし湯麺《たんめん》。餃子も」 「それじゃ、餃子ふたつに湯麺とビール」  男はそばに来て突っ立っているおばさんに言った。おばさんが奥へ戻って案外細い声で注文を調理場のおじさんに告げている。 「ねえ」  冴子がテーブルに両肱《りようひじ》をついて言う。 「何だい」 「あたし、セックスって好きよ」  男は目を剥《む》いて見せる。 「いけない……」 「いや。大変結構」 「蚊《か》だって、人間の血を吸うために生まれて来てるんじゃないでしょう」 「蚊……」 「そうよ。結局は、短い命だけど子孫を作るために生まれて来てるんじゃないの。でも、生まれて来た蚊は言ってるかも知れないわよ」 「なんて」 「人の血を吸うために生きてるって。子供を作るだけなら畜生同然だって」  男は笑った。 「人間だってそうよ。あたし達はいろいろ生意気なことを言って人生を語ったりするけど、やはり子供を作って種を保存するために生き、そして死ぬんだわ。だのに、なぜセックスをはずかしいことだなんて思っちゃうのかしら」 「はい」  おばさんがビールとグラスを二つ持って来た。冴子は瓶《びん》を取って男に注いでやる。男は旨《うま》そうに一息に飲みほした。 「そうだ、あなた糖尿じゃないの」 「少しくらいいいさ」  冴子は肩をすくめ、また注いでやる。 「はい餃子」  またおばさんが来る。 「早いね」 「空《す》いてるから」  おばさんはニコリともせず答える。空いてるも何も、ほかに客はいない。  そのとき、何か底深い音と共に店のガラスがビリビリと震えるような地響きを感じた。 「地震……」  冴子は椅子《いす》から尻を浮かせて言った。 「でもないようだ」  男が言い、おばさんもしばらく凝然としていたが、急に入口へ小走りに行って戸をあけた。  狭い通りに、店々から人が飛び出しているようで、甲高い声が聞えはじめた。 「あ、光ってる」  そんな男の声がした。 「何だろう」  男と冴子もおばさんのあとについて外へ出た。 「円盤だ。UFOだ」  みんな空を見あげていた。  たしかに、東から西へ、電車の線路に従って飛ぶように、銀色に光るものが見えていた。 「何、あれ」  冴子が叫んだ。 「たしかに円盤だ。そうに違いない」  それは楕円形に見えた。平べったくは感じられず、いつかテレビでやっていたように、ややこしく跳《は》ねまわってもいなかった。 「全部で六個だ」  男が数えたとき、突然ほぼその倍になった。十一の銀色に光るものが、一定の間隔を置いて整然と飛行していた。  速度は余り速くない。むしろ、ゆっくりと動いているという感じであった。 「あ、おりて来る」  最後尾のひとつが列から離れ、次第に大きさを増した。 「こっちへ来るぞ」  みんな軒下へ身を隠そうとした。が、銀色の飛行物体は、突然強烈に輝いて人々の目をくらませ、次の瞬間には消えてしまっていた。上空には残る十個の楕円が悠然と西へ移動している。  銀色の閃光《せんこう》に気を呑《の》まれて、あたりに沈黙がひろがっていたとき、また底深い音と共に大地が震えを伝えた。 「あいつが着陸したのかも知れねえぞ」  うす暗い横丁で、誰かが怯《おび》えたように言っていた。 「円盤……」  冴子は空から男の顔へ視線を移して、疑わしげな表情で尋ねた。たしかに空飛ぶ円盤としか思えないのだが、なおかつ信じかねているのだ。 「円盤だな、あれは」  男は自分を納得させるように言った。 「どうころんでも円盤さ。だって、円盤だもの」  男も信じかねているのだ。     3  銀色に光る楕円の行列が去ると、外の騒ぎも一段落したようだった。 「ズシーン……おなかに響いたわ」  冴子が湯麺を食べながら言った。 「薄情だよ。ちょっと教えればいいじゃないか」  汚れた前掛をしめたおじさんが、調理場から出て来ておばさんに文句を言っている。 「あたしだってびっくりしてたもの。それよりあんた、ああいうときに限って変に落着いてるからよ」 「折角の円盤、見そこなっちまった」  おじさんは残念そうだった。  男は餃子の最後の一個を箸《はし》でつまむと、 「帰り、送ってってやるよ」  と冴子に言った。冴子は湯麺の丼《どんぶり》を両手で持ち、つゆを啜《すす》りながら目をあげた。 「本当に円盤が着陸してるといけないからな」  男は冗談のように言い、餃子を食べた。 「お嬢さん、どこへ帰るの」  おじさんが尋ねた。 「南口」 「そりゃ送ってってもらったほうがいい。あっち側は物騒だよ」  おじさんの言う通り、北口は飲食店街やラブ・ホテルなども立ち並んでにぎやかだが、南側はまだ出来たての住宅地で、駅から少し離れると、整地がすんだだけでまだ野原同然の分譲予定地が多い。そのずっと先を、東名高速道路が長い谷のように通っている。 「おばさん、いくら……」  男は立ちあがり、財布《さいふ》を出して奥へ行った。  駅前はすでに暗かった。タクシーもいない。みな北口へ集まっているのだ。  地下道をくぐり抜けて、その南口駅前の小さな広場へ出た二人は、腕を組み体を寄せ合うようにして歩いて行った。 「何だか気持悪い」  冴子が小さな声で言った。そこここに生え残った草むらが、風が吹くたびざわざわと心細くなるような音を立てるのだった。おまけに、遠くで犬が長い啼《な》き方をしている。 「送るの、はじめてだね」  男もそう言ったきり、黙り込んでしまう。人家が絶えた。だだっぴろい分譲予定地の先に、最近建った家がひとかたまり、頼りない窓あかりを見せている。 「あ……」  二人は同時に足をとめた。右手のほうで何か光ったからだ。 「円盤かな」  男は本気で言った。 「そうみたい。だって、さっきの光とおんなじ色よ」  二人は分譲予定地の西側に残る松林のほうをみつめていた。 「あの松林の裏が中学校なの」  しっ、と男が冴子を制止した。また光ったのだ。二人は息をつめて見守った。銀色の光は脈動しているように、ゆっくりと膨《ふく》れたり小さくなったりしているらしい。 「行って見ましょうよ」 「危《あぶな》いよ」 「大丈夫よ」  冴子は男の手を引っぱって歩きはじめた。 「円盤だったら見なきゃ損よ。地面におりてる奴《やつ》なんて、見た人はあんまりいないそうじゃない」 「正体が判らないからなあ」  男は危がっている。 「判ってるじゃない。円盤よ。中に宇宙人が乗ってる奴よ」  冴子は正体が判っている気でいるようだ。 「どんな宇宙人かしら」  どうも、冴子はいろいろな宇宙人を知っているらしい。 「知らねえぞ、いざとなって震え出したりしても」  男は冴子に手を引かれて仕方なく脈動している銀色の光源に近付いて行った。 「何か大きな物よ」  冴子がささやいた。たしかにその銀色に光るものの輪郭《りんかく》はかなり大きいようだった。  二人は松林の中へ入った。 「何か匂うわ」  妙な匂いが風に乗って二人をおし包みはじめていた。そう不快な匂いではない。 「水っぽい匂いだな」  男は冴子の先に立って歩いた。松林の中と思ったが、銀色の光源はもっと遠いようだった。 「ずっと先だよ。夜だから近く感じたんだ」  男が言った。 「中学校の校庭にいるわよ」  冴子が確信をこめた調子でそう言った。 「この辺で着陸するなら、分譲予定地か中学の校庭しかないもの」  冴子の言う通りだった。それは中学の校庭にいた。 「円盤じゃないぞ」  松林の中の二人から、中学校の運動場が見えていた。校舎と体育館の間から、その奇妙な物体が見えているのだ。 「三日月《みかづき》形をしてる」  冴子が言った。 「あいつが飛んでたのかな」  たしかに三日月のような形をしており、しかも背中に何かビラビラした感じのものをくっつけていた。 「気持悪いわ。なめくじみたい」  全体に白くぬめっとした感じである。 「生き物だな」  金属的なところはどこにもなかった。肌はぬめぬめと生白く、動いているようにも見えないが、たしかに生き物であるらしいことには、その体から発する銀色の光が、けものの息づかいにも似た感じで、ゆっくりと膨張、収縮をくり返し続けている。 「どっちが頭だ」  男がつぶやいた。両端が同じように細くすぼまり、ややとがった感じでおわっている。 「百万年前のなめくじみたい」  冴子が言った。百万年前のとかげなら、首から尻尾《しつぽ》までおどろおどろしい背鰭《せびれ》のようなものを立てているが、それはとかげよりなめくじと言った感じで、しかも背鰭のようなヒラヒラを立てているのだ。 「動いたぞ」  じっと銀光の脈動を繰り返すだけだったそれが、のそりと動いたのだ。 「こん畜生め。怪獣め」  男が一人、校庭へ出て来て喚《わめ》いた。棒を持ってそれのまわりを威嚇《いかく》するように歩き、地面を叩《たた》いていた。 「校務員のおじさんだわ」  冴子が言った。 「校務員て何……」 「以前は用務員と言ってたけど」  その校務員のおじさんが、勇敢にも銀色に輝く百万年前のなめくじのような物体に立ち向っていた。  のそり。校務員の棒に追い立てられるようにそれがまた動いた。まったく、なめくじの運動に似ていた。 「こっちへ来るわ」  冴子が注意した。小高い位置にある松林からそれを見おろしながら男は言った。 「どこかで見た憶えがないかい、あいつ」 「どこでよ」 「ついさっき、俺達はあいつと同じのを食べたろう」  とたんに冴子は喉《のど》の鳴る音を聞かせた。 「よしてよ、気持悪い」  たしかに、紛れもなく、その三日月形のものは、さっきあの店で二人が食べた餃子の形に酷似していた。ただそれは、較べようもないほど巨大だった。校庭の中央から二人がいるほうに向かって来る巨大な餃子は、前後がサッカーのゴール・ポストからゴール・ポストまでの長さがあった。背鰭の一番高い所は二階の屋根と同じくらいだった。  巨大餃子が動き出すと、さすがの校務員も甲高《かんだか》い声を残して、松林とは反対の方角へ逃げ出して行った。 「案外気が弱そうだな」  男はそうつぶやいたが、それは校務員に対して言ったのではなく、巨大餃子のことを言ったようであった。校務員に棒で嚇《おど》されて、場所を変えようとしているようだった。  だが、それにしては移動の方角が悪かった。巨大餃子は二人がいる松林をめざし、当然のことながらその途中にある校舎に巨体を接触させた。  二階建ての校舎が巨体の圧力で音をたてて崩《くず》れはじめた。 「怖《こわ》いわ。逃げましょうよ」  冴子が叫んだ。銀色の光がすでに松林の中へまで入って来ている。巨大餃子が校舎を押し潰《つぶ》して松林へ這いあがろうとしているのだ。 「のろまらしいから心配ない」  男はそう言ったが、さすがに巨体をとりまく銀色の光を恐れて後退しはじめた。 「早く。早く」  冴子が叫ぶ。 「よし、逃げよう。こっちへ来る気だぞ」  男もやっとうしろを向き、冴子と手をつないで走りはじめた。  松林を抜けて分譲予定地へ出ると、二人のうしろで校舎を崩すときとは違った、メリメリという新しい音がはじまっていた。 「松の木を押し倒して来るのよ」  立ちどまり、振り返って見た時、冴子がそう言った。 「おおい」  道のほうで声がした。 「あ、おやじだわ」  冴子が素早くその声を聞きわけた。 「お父さん」 「冴子か。何だ、あれは」 「餃子のお化けよ」  二人は道のほうへ走った。 「餃子のお化けだと。馬鹿なことを言うもんじゃない」 「見れば判るわよ。こっちへ来るわ」  松林をかきわけるようにして、メリメリ、バリバリと巨大餃子が銀色に光りながら姿を現わしはじめていた。 「お父さんですか、はじめまして」  父親は制服制帽姿で自転車にまたがっていた。 「ん」  父親の警官はあいまいに頷《うなず》いた。 「宇宙生物ですよ」 「まさか。何も聞いていないぞ」 「ついさっき、編隊でこの空を飛んだ円盤群がいるんです」 「円盤……。風船の見あやまりじゃないのか」 「いいえ。そいつがひとつ低空へおりて来た時、ズシーンと地響きがしました。その時多分あいつが降りたんですよ」 「その地響きか、あれは」  父親も感じたようであった。 「ええ。松林の先の中学が滅茶滅茶《めちやめちや》にやられました」 「どうやられた」 「こわされたんですよ。あのでかい体で押し潰《つぶ》されたんです」  父親の表情が険しくなった。 「なぜ早く警察に通報せん」  父親は冴子を叱った。 「お父さんこそそんなこと言ってないで早く何とかしなさいよ。自転車があるじゃないの」  冴子が逆に食ってかかる。 「もう遅いようだ。お前、これで逃げなさい」  父親は自転車から体を離すと、冴子にハンドルを渡した。 「なるほど餃子だな」 「お父さん。どうする気なの」  冴子が叫ぶ。父親は答えず、腰の拳銃《けんじゆう》をじれったい程慎重に抜くと、中腰になってゆっくり巨大餃子のほうへ近寄って行く。 「よしなさいよ。かないはしないんだから」  父親は答えない。 「そうですよ。怒らせたら大変です」  男も言う。父親はそれを聞くと急に怯えた顔で振り向いた。 「あれは怒るのかな。生き物のように感情があるのかな」  その時、遠くからにぎやかな音が聞こえて来はじめた。 「パトカーよ」  冴子がうれしそうに言った。 「いや、あれは消防の音だ」  父親が言い、たしかに数分後、まず消防車が道に現われ、少したってからパトカーも二台ほど現場へ到着した。  冴子の家のあたりでは、まだその程度ですんだ。しかし都心では大騒ぎだった。  後楽園《こうらくえん》球場、神宮外苑《じんぐうがいえん》、駒沢《こまざわ》、代々木《よよぎ》、そして皇居前。到る所に巨大餃子が出現していた。彼らは広場らしい所をそれぞれの居場所ときめ込んで、翌日になっても動こうとはしなかった。  はじめ巨大餃子が移動しない物体ときめ込んでいた人にも、日本各地、いや世界各国からの情報で、彼らが必要を感じれば、なめくじのような動作で移動することができるのを知らされた。  巨大餃子を刺激してはいけない。  いち早く移動の際の危険を察知した当局はそう厳命し、巨大餃子の降着地周辺は交通を制限し、車を迂回《うかい》させた。  誰も彼もが、ひと目この前代未聞の巨大餃子を見ようと、近くの降着地へ押しかけて行った。  巨大餃子は宇宙生物らしい。  ニュース解説は口を揃《そろ》えてそう言った。三日、一週間と、不安と好奇心の入りまじった日々が過ぎて行った。  いったい連中は何をしにこの地球へやって来たのだろう。はじめ好奇心のほうが強かった人々も、次第にそういう不安のほうを強く感じはじめて行った。地球征服……まさかと思う反面、自分達が生まれ育ったこの星に対する不安に襲われるのだ。  ここは我々の星だ。  みんな心の中でそう叫びはじめたとき、突然巨大餃子たちは変化を示した。  それは世界中の巨大餃子達が一斉に示した変化であった。人類がまだ巨大餃子の総数さえ正確に掴《つか》めぬうち、彼らは肥大をはじめたのだ。  ただでさえ巨大な体が、一時間ごとに大きくなりはじめ、それに伴って銀色の光も、赤味を帯びるようになった。ぬめぬめとした白い土の肌も、ほんのりと紅がさしたようになり、それと同時に桃色の光の脈動も急になったようだった。  移動の兆候が見える。  当局がそう警報を発した時は、すでに一部が動きはじめたあとであった。  巨大餃子は一斉に移動を開始した。ピンクの巨体はビルを押し潰し、住宅を粉砕した。彼らの移動したあとは、瓦礫《がれき》の山が残るばかりであった。  ヘリコプターが移動の状況を観察していた。 「連中は一か所に集まろうとしている」  ヘリがそう報告した。しかし、全部が一か所に集まろうとしているのではなかったようだ。六、七個の巨大餃子が一組となる為に、一定の方向へ移動したのだ。従って、あちこちに彼らのめざす集結地点があるのだった。 「これは宇宙生物の交尾だろう」  学者たちがそう言いはじめ、警察当局はその言葉に従って各集結地点の予測を立て、住民の避難を指導した。世界中が電波で日本の避難法を教えられ、住民をその通りに導いた。  それはたしかに宇宙生物の交尾であった。巨大餃子は背鰭をふりたてながら、ビルの四、五階にも達する大きさになり、肌をピンクに染めて集結して行った。  一つ、また一つ。三日月形の体が、スポリ、スポリと重なり合った。結合の数は、六個から七個。まれに八個である。  火災が発生した。  ビルや住宅の倒壊によるものもあったが、その火災の主な発生源は、巨大餃子が発する熱であった。彼らは交尾期に高熱を発するらしい。  集結地点では必ず大火災となった。巨大餃子はその炎の中で歓喜を味わっているようにのたうちながら結合していた。  火災のあとが地震だった。いや、正確には地震とは言えまい。震源は地表でのたうちまわる、結合した巨大餃子たちだったからだ。  結合した巨大餃子は、火炎の中で突然結合したまま一気に跳ねあがって体を裏返しにした。それまで大地に接触していた部分があらわにされた。  その大地との接触面は、巨大餃子自身の熱によって焼け焦げているようだった。  ひっくり返った一連の巨大餃子たちは、それっきり活動を停止した。熱が収まりはじめ、人々はやっとひと息ついた。  一つ、また一つ。  夜空へ銀色に光るものが飛び立ち、遠のいて行く。交尾のおわった巨大餃子の列なのだった。 「どうやらこの地球は彼ら巨大餃子の繁殖地であったようです。つまり、我々の母なるこの地球の大地は、彼らにとって交尾のためのベッドなのです。地球誕生以来、すでに彼らは何度もこのベッドへ来ている筈《はず》なのです。しかしご安心ください。巨大餃子が次にやって来るのは、何百万年、何千万年という遠い未来の筈なのですから」  一つ、また一つ。巨大餃子が宇宙へ戻って行った。  そう、彼らはベッドをおりたのだ。 [#改ページ]   汗  腿《もも》から脇腹《わきばら》へゆっくりと登って来る女の掌の感触の中で、津村は自分の若さを賞味されているのだと思った。  はじめ津村の左側へすべり込んで来た綾江は、ひとしきり静かだが粘っこい戯《たわむ》れ合いをかわしたあと、いつの間にか右側へ移っていて、今は左肱《ひだりひじ》をついて上体をなかば起し、そうやって右の手を津村の体《からだ》に遊ばせているのであった。  いつも形どおりに二つ並んだ枕《まくら》の左側に位置を占めていたが、ひょっとすると綾江は向き合って右手を空《あ》けるほうの位置につきたいのではなかろうか……。津村はそう思いながら軽く閉じていた目をあけた。右の太腿《ふともも》を綾江の下肢《かし》が少しきつめにはさみ込んでいる。  大きくはないが小さすぎもしない乳房が、薄暗くした灯《あか》りの中で静かに息づいている。綾江の肌《はだ》は色白ではない。どちらかと言えば、やや浅黒いほうだ。しかし肌理《きめ》のこまかい、ごく柔らかな肌であった。  津村は手を動かし、上になった右のふくらみを、掬《すく》いあげるように掌で包んだ。綾江はその感触をたのしむように、しばらくじっとしていたが、やがて津村の目をみつめ、ゆっくりと首を左右に振って見せた。 「もういいの……」  掠《かす》れ気味の声でそう尋ねる。昂《たかぶ》って掠れたのではなく、それが生まれつきの声らしいのだ。  津村は黙って頷《うなず》いた。彼にして見れば、お望みなら、と言うつもりなのだが、そういうとき綾江の顔はいつも津村より高い位置にあった。  綾江が体を移し、男を自分の奥へ導いた。慣れ切った動作だが、厚かましさなどは微塵《みじん》も感じさせなかった。解いた髪が綾江の左肩から流れ落ちて津村の右の頬《ほお》に触れている。 「見事な人だ」  津村はそうささやいた。それは本音であった。裸で肌を交えていても、寸分の隙《すき》も見出せない感じなのだ。男と女の、どんな局面をも、もう経験し尽しているのだろう。充分に自制がきいていて、しかも淫《みだ》らに愉《たの》しむ遊び方も知っている。  狂わせてやりたい。  津村は綾江がはじめたゆるい動きの中でそう思った。綾江のそんなゆとりを力で奪ってしまいたくなるのだ。……ただ、そう思ったときが、いつも津村の負けるときであった。  津村は両腕を伸ばして綾江の華奢《きやしや》な体を自分の胸に引きつける。 「あ……」  綾江は不意を衝かれたような短い声をあげ、津村は一気に体を入れかえて綾江の顔を見おろした。  蹂躙《じゆうりん》したつもりが、結局また綾江の思い通りに奉仕させられてしまったことを悟ったのは、綾江の左手が津村の右の肩口を下から押しあげたときであった。津村は相手にかかっていた自分の重さを知って、少しあわて気味に体を離した。  綾江は仰臥《ぎようが》した津村を慰めるように、彼の手をとってのこり火を感じさせる茂みに押しあてた。 「合うわ、あなたって」  褒《ほ》め言葉らしかった。 「君にかかると俺はまるで子供だな」 「そんなことないわ」  綾江は微笑したようであった。津村は右手で自分の胸の辺りに触れていた。汗で濡れていた。起きて体を拭《ぬぐ》わねば、体が冷えて来ると気分の悪い思いをするに違いなかった。  乾いている。  津村は綾江の下肢をまさぐりながらそう思った。火照《ほて》ってはいるが、綾江の肌は湿っていなかった。 「俺はまた汗をかいてしまった」  津村は弁解するように言い、体を起した。綾江はいわゆる茶筒形というタイプで、骨盤も狭く、現代的なグラマーには程遠かったが、撫《な》で肩、柳腰の華奢でしなやかな体つきであった。  綾江はその体をくまなく津村の目にさらしながら、 「ほんと、拭《ふ》いていらっしゃい。風邪《かぜ》を引くわよ」  と言った。 「シャワーを浴びて来る」  津村は立ちあがり、浴室へ向かった。  とてもかなわない。  浴室の水音の中で津村はそう思った。とても自分の手にはおえそうもない感じなのだ。人よりは多少女遊びの激しいほうだと自覚しているが、綾江は津村が今までに知ったどの女とも似ていなかった。セックスのたのしみかたは男に近いような感じだが、それでいて女らしさは少しも損《そこな》っていない。茶道と華道の教授をしていると聞いているが、その修練で得た物が、男に抱かれている最中でも綾江をしっかりと支《ささ》えているような気がしてならなかった。  しかも、綾江の背後にはかなりの大物がいることは間違いなかった。それが財界人らしいことも、津村には薄々|判《わか》って来ている。  俺は遊び相手に選ばれたらしい。  津村はそう思いながらシャワーをとめ、バスタオルを体に当てた。決して悪い気分ではなかった。綾江ほどの女に選ばれた自分が、少し誇らしいような気分であった。それに、綾江のような女に対して、自分が遊び相手以上の立場になれるとも思えないのだ。彼女がどんなに金のかかる女か、充分に判っているのである。  部屋へ戻ると、綾江は鏡台に向かっていた。 「車を呼んでおいて頂戴」  鏡に向かったままそう言う。 「俺の車があるのに」  津村が不服そうに言うと、綾江はしばらく黙っていたが、 「そうね」  と言って振り向いた。 「送ってもらおうかしら」 「そうさせてもらいたいな」 「ただし家の前までよ」 「誰かいるのか」 「いるわよ、それは」  綾江は立ちあがり、きものを着はじめる。 「おしげさんと言ってね」 「女中さん……」 「そう。もう十年以上も一緒に暮らしているの。近ごろ少し気を揉《も》んでいるのよ」 「なぜ」 「あなたのせいよ」  綾江は腰紐《こしひも》を頤《あご》にはさんで紗《しや》のきものの前を合わせながら言った。 「これで四度目じゃないの。こんな髪で夜中に帰るのは」  会ったとき綺麗《きれい》に結いあげていた髪が、今はピンを外《はず》され、長くたれている。 「どんな人と浮気をしているのか教えないもんだから、お説教をしたくてたまらないらしいのね」 「言いつけられやしないか」  津村も服を着はじめながら言った。 「探りを入れたつもりなの……」  綾江は鮮《あざ》やかな手つきで腰紐をしめた。 「別に。君がどんな人に愛されているかなんて、知ったところで仕方がない」 「どういう意味……」 「あきらめているのさ、最初から」 「それならどうして送りたがるの。送ればわたしが住んでいる家も判ってしまうわよ」 「それとこれは別さ。今のところ、こちらからは連絡する方法もないんだからな」  すると綾江は、帯をしめながら早口で数字を並べた。津村はそれを復唱し、上着の内ポケットから手帳を出して書きとめた。 「電話を教えたの、どういうことだか判っているの……」  綾江は津村のほうを見て微笑した。 「本当はこの前教えてしまおうかと思ったの」 「ほう……」  綾江は帯をしめおわると、津村に近寄って両手を彼の腰にまわし、下腹部を押しつけるように体を反らせた。 「でも、もう一度待ったの」 「なぜ」 「すてきだったわ。今夜も」 「やっと合格したわけか」 「そう」  二人は軽く唇《くちびる》を合わせた。  雑貨と食品類が主だが、津村は高級品を専門に扱う貿易商をいとなんでいた。オフィスは赤坂《あかさか》のホテルにあり、同じホテルの二階に店舗を出していた。  よく晴れた暑い日の午後、津村がその店にいると、永坂綾江が不意にやって来て津村にほほえみかけた。 「やあ、いらっしゃいませ」  店へ来たからには客である。津村はそう言って奥のデスクを離れた。 「上へ行こうかと思ったのだけれど、やはりここにいらしたのね」  綾江はすでにその店へ六、七回も来ていて、店員たちとも顔馴染《かおなじみ》になっている。 「どうぞ」  と椅子《いす》をすすめられ、暑い中を歩いて来たにしては相かわらず汗の気配も示さぬ様子で、ハンドバッグをテーブルの上に置いた。 「お暑かったでしょうに」  今どきの若い娘にしてはなかなかよく気がつく伊藤という店員が、綾江のけろりと涼し気な顔を見て感嘆したように言った。 「暑いわねえ、本当に」  濃紺の絽《ろ》に紗の袋帯をしめた綾江は、調子を合わせるようにそう答える。 「奥さまほどの美人になると、汗などおかきにならないものなんだよ」  綾江をからかうつもりで津村が言うと、伊藤という女店員は、いやに感心したように頷いた。 「嘘《うそ》よ。わたしだって汗くらいかくわ」  綾江は苦笑を泛《うか》べて言ったが、女店員は憧《あこが》れるような目で綾江をみつめていた。 「今日はまた何か新しいご注文でも……」  津村はそう言って綾江の前の椅子に腰をおろす。綾江がはじめてその店に来たのは、ツーラのワイン・キャビネットを探しに来たのだった。木材を仔山羊《こやぎ》の皮でくるみ、その上に樹脂加工を施したツーラの高級家具は、ぼつぼつデパートなどでも扱いはじめていたが、綾江が指定する品は直接イタリーの本社へ注文しないと手に入らない物だった。しかし、津村の商売はそういった方面が専門なので、すぐに引受けることができた。綾江は値も訊《き》かずに注文したが、船便で日本へ届くのはまだだいぶ先のことであった。引き渡すときの価格は恐らく二百万円前後になるだろう。 「このホテルで人に会う用事があったから、ついでに寄っただけ」  綾江はそう答えたが、どうやら津村に何か告げたいことがあるようであった。 「伊藤君、何か冷たい物を」  他の店員は綾江におそれをなしたように遠く離れていて、伊藤を去らせてしまえば、二人だけの会話ができた。 「これから軽井沢へ行かなくてはいけないの」  果して綾江は低い声でそう言った。目にはいたぶるような色がのぞいている。  津村は舌打ちをした。 「そろそろ会える頃だと思ったのに」 「留守《るす》の間、浮気しちゃだめよ」 「それを言いに来たのか」  綾江は軽く笑った。 「何だかあなたをうぬ惚れさせてしまったみたい」  津村はちょっと鼻白んだ。 「じゃあなぜ……」 「ついでよ」  綾江はたしかに津村をいたぶってたのしんでいるようだった。 「勝手にしてくれ」  津村はついふてくされるように言ったが、心の中でまた舌打ちを重ねていた。  大学生が人妻に可愛がられている……そんな感じになってしまうのだ。津村はことし三十七だが、綾江にかかっては苦もなく子供扱いされ、また自分でも初心《うぶ》な青年に戻ってしまうようなのだ。  伊藤が飲物を運んで来た。 「有難う」  綾江はそう言って、艶《つや》めいた目を伊藤に向けた。 「これから行くのよ」  ストローをいじりながら綾江が津村に言うと、伊藤がそれを横どりして、 「あら、どちらへいらっしゃいますの」  と訊いた。 「軽井沢へいらっしゃるそうだ。お迎えの車がこのホテルへ来ているのさ」  津村が皮肉をこめて言うと、 「そうなの」  と綾江は屈託のない笑い方をした。多分その通りに違いなかった。  津村は綾江の背後に巨大な男の影があることを強く感じ、それに対する嫉妬《しつと》を抑《おさ》え切れなかった。 「おたのしみなことですね」  そう言って立ちあがり、カタログ類をしまってあるキャビネットのほうへ去ると、その背中へ綾江がドキリとする言葉を浴びせて来た。 「あら、憤《おこ》ったの、あなた」  津村は思わず足をとめて振り返り、まず伊藤という女店員の顔を見た。彼女の顔には案の定 驚愕《きようがく》の表情があった。 「別に僕が憤る筋でもないでしょう」  できるだけさりげなく答えてキャビネットの抽斗《ひきだし》をあけたが、擽《くすぐ》ったいものが心の底から一時に湧《わ》きあがった。  綾江は自分との関係を誇示したがっているのだ。津村はそう感じ、満足した。いたぶっているような態度の裏に、しばらく会えないことを告げに来た女心がのぞいているではないか。  津村はハンドバッグのカタログを抜き出すと、綾江の前へ戻った。 「いかがです。これなどは……」  カタログをひろげて指さすと、伊藤は急に気付いたように奥へ用ありげに去って行った。 「モラビトのバッグをプレゼントしようと思って」  津村が言う。 「べべ・クロコね。高いわよ」 「何しろむずかしい人だから、黙って勝手に選んでも、押入れに突っ込まれてしまいかねないから」 「モラビトのベベ・クロコをプレゼントされて、気に入らないなどと言う女は日本にはいないはずよ」  べべ・クロコ、つまりクロコダイルの赤ん坊の皮で作ったバッグである。安くても七、八十万はする。 「もう行かなくては」  綾江はそう言うと、ほんの形ばかり口をつけた飲物のグラスをおいて、 「どうもご馳走《ちそう》さま」  と奥の伊藤に声をかけた。 「あら、もうお帰りですの」 「ええ」  綾江は立ちあがると、茶道できたえた隙のない姿勢で入口へ歩き、津村がドアをあけると、そのまま鮮やかな裾《すそ》さばきで強い陽《ひ》ざしの中を去って行った。 「嫌《いや》ですわ、社長」  伊藤はそれを見送ってから、恨むように津村に言った。 「何がだ」 「だって……」  伊藤は言い澱《よど》み、ひとつ大きく息を吸ってから、 「凄《すご》いんですねえ」  と言うと、急に顔を赤くして綾江の飲物を奥へ運んで行った。 「何が凄いんだ」  デスクへ戻った津村がからかうように言う。他の店員たちはみな店に出ていて、奥には津村と伊藤の二人だけであった。 「いつの間にか」  綾江とのことを言っているのだ。 「判ったか」  失敗した、と言うように津村が言うと、 「あんなはっきりおっしゃるなんて」  と伊藤は非難するように津村をみつめた。 「何も俺《おれ》がバラしたんじゃあるまいし」  津村はうきうきした気分であった。 「でも変ですわ」 「どうして」 「あたし、社長にやきもちを焼いてるみたいなんです」 「君が俺に……」  伊藤は真面目《まじめ》な顔で頷いた。 「あんな方に愛されたらすてきだろうなあ、って」 「おいおい」  津村はおどけた。 「君はレスビアンの気があるのかい」  伊藤はびっくりしたように、 「違いますわ」  と強く首を横に振る。 「でも、あんな綺麗な女性って、そう滅多にいるものじゃありませんわ。男性でなくたって、うっとりしてしまいます」 「そうかも知れん」  津村もつい頷いてしまった。 「あら」  伊藤がそれに気付いてすかさず逆襲した。 「ご馳走していただかなくては」  津村は頭を掻《か》いた。 「いかんな、どうも。あの人が相手だとどうも調子が狂ってしまうんだよ」  伊藤はたのしそうに笑った。津村も一緒に笑いながら、これで一人味方ができたようだと思っていた。  クラブ・ルナで津村は客をもてなしていた。相手は大学時代の仲間で、今は通産省の役人としていいところまで行っていたから、津村の商売には何かと頼りになるのだった。  その相手がひと足先に帰って、一人きりになった津村は、昌子を相手にしばらくとりとめのない話をしていた。  昌子とはもう随分長い付合いになる。 「ねえ、送って行って」  津村が帰る気配を示すと、昌子がそうねだった。時計を見るともう閉店|間際《まぎわ》であった。 「いいよ。しかし今夜は送るだけだぞ」 「いいわ」  昌子は案外簡単に承知し、結局津村は閉店まで腰を落着けることになったが、車を運転しなければならないので、酒は最初に水割りを一杯付合っただけであった。  津村の車は商売の演出上からも目まぐるしく次から次へとよくかわる。今使っているのは、シトロエンCXのプレステッジ・パラスであった。同乗した客を珍しがらせたりよろこばせたりできる車でないと意味がないのだ。  昌子はその車にはこれで二度目だった。 「あの人、どんな香水を使っていらっしゃるの……」  走り出してしばらくすると、昌子が唐突な感じでそう切り出した。 「あの人……」 「大美人ね」  昌子は津村のとぼけぶりがおかしいのか、くすくすと笑った。 「知っていたのか」 「偶然あなたと二人でこの車に乗り込むところを見ちゃったのよ」 「畜生」  津村は唸《うな》った。 「別に嫌がることはないわ。妬《や》いてるわけでもないし」 「彼女を乗せたのは一度きりだ。しかも……」 「誤解しないでね。あのホテルに泊っているお客を送って行っただけよ。伸代と一緒だったし、前でおろしただけなの」 「彼女のことを知っているのか」 「永坂という人でしょう」 「そうだ」 「あなたも大胆ね」 「なぜ」 「あの人は有島常平の二号さんよ」 「やっぱりそうだったのか」  有島常平は、財界の指導者の一人であった。 「有島さんと一度うちのお店へ見えたことがあるの、何しろあんな美人でしょう。一度で憶《おぼ》えてしまったわ」 「すまん」 「何であやまるのよ。あたし、憤ってなんかいないわ」 「ほう……」 「あの人じゃ、あたしなど喧嘩《けんか》にもなりはしない。……でも、あなただって」  昌子は笑った。 「俺だって何だい」 「あの人に遊ばれているだけ。そうでしょう」 「たしかにな。それで憤らないわけか」 「まあね。でもふしぎねえ、ああいう人って、あたしたちとはまるで別の世界に住んでいるみたい。あたしたちは憧れるだけ」 「憧れる……」 「そう。子供のころ、あたしだって綺麗なお姉さまに憧れた経験があるのよ。恋したって言ってもいいわ。あの人は、そういう相手なのよ、女にとってはね」 「本当に昌子は彼女に対して、今でもそんな感情を持てるのか」 「ばかにしないで」  昌子は少し腹を立てたようだった。 「いや、実はこの間、うちの店の伊藤という子が同じようなことを言っていたのでな」 「あら、その子センスがいいわよ」 「男にも女にも惚れられるというわけか」 「女にはね。でも男は惚れたりする前に、普通ならおそれてしまうんじゃないのかしら。あなた、本当は少し鈍感なんじゃないの……」 「なんでだ」 「おそれ気もなく、あんな人とどうかなっちゃうなんて。有島さんとまでは行かなくても、もう少し自分に自信のある人じゃなければ手を出す気なんか起さないのが普通だと思うわ」  昌子が言っていることは、津村にもよく判った。自他共に許す超一流の男でなければ、綾江を自分の女として考えたりすまいと言うのだ。 「鈍感か、俺は……」  津村は苦笑した。相手が昌子でなければ、向こうから誘って来たのだと惚気《のろけ》てしまうところであった。  それにしても、昌子は物判りがよかった。まるで綾江と津村がそういう関係になったことを、自分も誇らしく思っているように言うのだ。  綾江とのことはたしかに津村にとってひとつの戦果であったが、同時に彼は昌子に対して保護欲を感じた。昌子を綾江に紹介してやりたいと思ったほどである。ひょっとすると綾江は昌子のお姉さまとして、可愛がってしまうかも知れない。……そう思ったのは、女店員の伊藤に向けた綾江の目を思い泛《うか》べたからであった。 「どこへ行くの。道が違うわよ」  昌子が注意するように言ったが、津村はかまわず車をひと気のない道へ向けて行き、エンジンを切った。 「お前を放したりはしない」  そう言って昌子を抱き寄せると、昌子は待っていたように顔を押しつけて来た。  綾江の思うままにされた幾夜かが、津村をそんな気持にさせたのかも知れない。津村は強引に昌子のドレスの下に手を這《は》わせ、かなりサディスティックな気分で昌子を昂《たかぶ》らせることに熱中した。汗をかかせてやる。汗みどろにしてやる。  津村は昌子の体から、官能の叫びよりは汗を引き出したがった。クーラーもとまった車の中で、昌子は津村の指戯に悶《もだ》え、シトロエンの柔らかいサスペンションが、敏感にボデーを揺らせた。 「どうしてこんなにいじめるのよ」  昌子はしまいには泣き声で訴えた。何度か津村にも悦びを与えようと手を伸ばしかけたが許されず、かなりの時間乱れ続けた揚句、常にない高い叫びをあげてぐったりとなった。 「ひどいわ。汗びっしょりじゃないの」  エンジンをかけ、クーラーがききはじめると、昌子は恨めしそうに言った。  昌子をおろしたあと、津村は彼女が坐っていたシートに手を押しあて、どこやら陰気な表情で長い間その湿り気をたしかめていた。  軽井沢から戻ってすぐ、綾江は津村に連絡して来た。  その夜、いつものホテルで落合い、津村に抱かれた綾江は、 「わたしの好きにさせてくれる……」  と念を押した上で、一気に呆気《あつけ》なく登りつめ、津村の体からおりると、よろめくように浴室へ行ってタオルを濡らして来ると、まだ昂ったままの津村をきよめてから、今までにないサービスぶりを示した。 「つくづく、今度という今度は思い知らされてしまったの。どんな強い男も、年には勝てないのねえ」  二度ほど綾江はそう言った。  軽井沢へは有島常平と行ったに違いなかったが、そこで何が起ったのかはよく判らなかった。  しかし津村は、綾江ほどの女がそう言うからには、単に肉体の衰えだけについて言っているのではないように思った。  いずれにせよ、軽井沢で綾江は有島にいいように昂らされ、満たされぬまま東京へ帰されたに違いなかった。それはその夜の貪欲《どんよく》さが告白していた。  綾江からの電話が、俄然《がぜん》多くなりはじめた。店やオフィスへ遊びに来る回数も増え、一緒に食事をすることも珍しくなくなった。 「すっかりあなたに馴れてしまったわね」  綾江は津村の体に堪能しては、そんなことを言った。 「いいこと……一週間もあたしを放っておいたらひどいんだから」  別れぎわ、なかば本気でそんなことを言ったりして、気がつくと徐々に綾江の体に汗の浮く夜が多くなって行った。  反対に津村は綾江との夜で、男の立場を回復していた。たしかに綾江の体は津村という男に馴れて、彼がその気になればすぐ我を忘れるようになっていた。  そしてとうとう、津村の待っていた夜がやって来た。  いつもより比較的あっさりと体を交えたのに、綾江は髪までしとどに汗で濡らしていた。 「どうした」  津村は綾江の肩の上に手をついて、勝ち誇ったように言った。 「びしょびしょに汗をかいている」 「あなたのせいよ」  綾江は怯《おび》えたような目で津村をみつめながら答えた。  たしかにこの汗は俺のせいだ。  津村はそう思った。自分は少しも汗をかいていないのだ。 「悪い人」  綾江はそう言い、巧みに津村の体を外すと、 「汗を流さなくては」  と浴室へ行こうとした。津村はその体の上へ体重をかけ、汗みどろの綾江と肌を密着させた。  つるり、とすべるような感じで綾江はのがれ、 「あなたも体を拭きなさい」  とタオルを投げて寄越した。  起きあがって浴室へ去る綾江の全裸を見送った津村は、自分が昌子に会いたがっていることに気付いた。昌子と比較すると、やはり綾江の体ははるかに老いていた。  津村は胸のあたりについた綾江の汗をタオルで拭った。  ま新しいタオルは、濡れた肌をむなしく上すべりして気分が悪かった。 [#改ページ]   マンションの女  マンションの建ち並ぶ南青山界隈《みなみあおやまかいわい》 でも、ことに管理のいいことで知られるそのマンションへ、茶色いステーション・ワゴンがゆっくりと乗り入れて行く。  玄関の脇《わき》の管理人室のガラスごしに、眼鏡《めがね》をかけた管理人が、上目づかいにその車を睨《にら》んでいる。  ステーション・ワゴンはそのまん前でとまり、運転していた男が窓をあけてひょこりと頭をさげる。 「青の二番へ」  管理人の声が外のスピーカーから聞こえる。居住者の駐車スペースは白線の中に白い数字で番号が示されているが、来客用のは青い線に青数字なのだ。声を出してもガラスごしで外から中へは聞えないから、男はまた軽く頭をさげて車を奥へ進め、青の二番へ入れてとめた。  車をおりるとうしろのドアをあけ、唐草《からくさ》模様の大風呂敷《おおぶろしき》を出すと、ドアをロックし玄関へ向かった。  玄関はまず自動ドアがあって、中へ入ると右側に郵便受けの列。左側にインターフォンのようなものがずらりと並んでいる。外来者はまずそれで訪ねて来た部屋へ来意を告げることになっている。でないと次のドアが開かない。  唐草の大風呂敷を持った男はその手続きをして、次のドアをあけ奥へ進んだ。臙脂《えんじ》に塗ったエレベーターのドアの前に立ってボタンを押す。折りよく一階へおりていたと見え、すぐドアがあいて男はエレベーターへ乗り込んだ。  十一階の十一号室。ルームナンバーは一一一一。ポロロン、と中でチャイムの音がしたが、男は風呂敷を床に置いてのんびりと待つ構えだ。二、三分してドアがあく。いつもそのくらい待たされるのだろう。 「こんにちわ」  男はゆっくりと言い、どっこらしょと大風呂敷を中へ入れ、靴《くつ》を脱ぐ。 「お父さんの具合はどう……」  奥の居間からちょっとかすれた女の声。中へ入ると煙草《たばこ》のけむりが立ちこめている。それを打ち消すように、お香《こう》をたいた匂《にお》いが強く鼻をうつ。 「おととい退院しました。おかげさまで」  ドアをあけたのは二十《はたち》代の女。大きなバラの花の刺繍《ししゆう》をした真っ赤なガウンを着ている。 「徳さんの奥さんに会ったわよ」  その女はキッチンのほうへ去りながら言う。 「へえ、どこでですか」 「八時ごろ、帝国ホテルで」 「ああ」  徳さんは大風呂敷を床に置いて、 「仲間の寄り合いがあったんですけど、ちょうどおやじが退院する日なんで、かわりに女房を行かせたんです。行って並んで坐ってりゃそれでいいんですから」 「少し眠ったみたいだったわ」 「少しどころか」  徳さんは笑いながら青いカーペットをしいた床にじかに坐《すわ》った。 「雪絵、紅茶でも」  かすれた声の女が言う。母親なのだ。喉《のど》に巻いた包帯が、痛々しいというか厄介《やつかい》というか……とにかくひと癖ありげでいかにも口やかましそう。おまけにその母親はのべつ体を動かしている。いや、動かしているのではない、自然に動いているのだ。よく見れば彼女の坐っているのは、温泉ホテルなどでよく見かける電動式の自動マッサージ機なのだ。  低くて鈍い音が、ゴロンゴロンと続いている。 「なかなか小紋のいいのがなくて」  徳さんはつぶやくように言って唐草の大風呂敷をひろげた。呉服屋なのだ。 「しっかりしなきゃ駄目じゃないの。お父さんが来ると、嫌《いや》でも引取りたくなるのが二反や三反はあったものよ」 「すいません」  徳さんはさして気にする風もなく詫《わ》びる。 「時代が違っちゃってるんですよ。こちらはお好みが渋いから。わたしだって別のところへ行けばそう言われるんですよ」 「どう言われるの」 「いつ来ても引取りたくなるものが二反や三反はあるって」 「聞いた、雪絵」  母親はケタケタと笑う。 「そりゃそうよねえ」  紅茶のカップをカチカチ言わせながら雪絵がキッチンから出て来て言った。 「お父さんゆずりですもの。うちのお母さんの好みがやかましすぎるんだわ」 「へ、こりゃどうも」  カーペットの上へ正座した徳さんは、雪絵からカップを受取る。雪絵は名の通り色白で目鼻だちのはっきりした美人である。でも髪はたった今起きましたと言う具合で寝乱れたまんま。 「そうそう」  徳さんはお義理で紅茶をひと口|啜《すす》ると、そのカップを用心深くわきへ置いて言う。 「おやじが以前言ってたんです。これが来たら必ずしのぶさんに見せろって」 「へえ……どれ」  母親が背中をゴリゴリ押しているマッサージ機から離し、徳さんの荷を覗《のぞ》き込む。 「これなんですけど」  母親は唸《うな》って見せる。 「さすがね」  徳さんは反物を一本、慣れた手つきでひろげて見せる。甕《かめ》のぞき、と言った淡い青の地に渋い焦茶の型絵染《かたえぞめ》。ちょっとモダンだが、着ればいかにもキリリとしそうな紬《つむぎ》である。 「嫌《や》あねえ、こんないいの」  母親は徳さんから巻いたほうを受取ると、これも慣れた手つきで坐ったまま自分の肩から胸、膝《ひざ》の辺《あた》りへそれを掛け流して見る。 「どう、雪絵。あたしもまたお店へ出たくなっちゃうじゃないのさ」 「よしてよ」  雪絵はにべもなく言う。 「こういうのはやっぱりお母さんじゃなくちゃね」  徳さんがおだてた。 「雪絵、お前当ててごらん」 「嫌《いや》よ、そんな婆くさいの」 「そんなことありませんよ」  徳さんが口をとがらせた。 「若い人のほうが案外シマって似合うんですよ」 「何言ってるの。お母さんにピッタリだと言って出したくせに」  母親は反物を徳さんに返した。 「さすがお父さん……そう言っといてね」 「はい」  徳さんはそれを巻き戻しはじめる。 「でも買わないわよ。あたしはもう要らないの。雪絵の結婚式用の留袖《とめそで》も買っちゃったし、もうご隠居さまよ、これでも。もっとも雪絵の結婚式なんて、いつになることやら見当もつかないんだけどさ」  そう言う母親は、しのぶと呼ばれた元ホステス。遂《つい》に未婚の母で今日に至っている。 「おや、そんなお話が出てるんですか」  徳さんが本気で尋ねる。 「まだよ。まだ何にもありはしないけど、いずれは結婚してもらわなくちゃね」 「そりゃそうですよ」  しのぶ、雪絵の母子に、父親の代から二代続けて着物を売りつけている徳さんは、すかさずお世辞を言う。 「雪絵さんさえその気になれば、どんないいところへだって」 「冗談じゃないわ」  雪絵はラークを咥《くわ》えて、大きな卓上ライターで火をつける。 「お仕事が面白くなって来たばかりのところだというのに」 「そう言っている内に年を取っちゃうのよ、ホステスなんて」 「何言ってるの。あたしを銀座へ行かせたのはお母さんじゃないさ。短大なんか行くよりずっといいんだからって、そう言ったじゃないの」 「そりゃお前、あの頃はあたしだってまだお店をやってたし、自分の娘が手伝ってくれればこんないいことはないと思ったからだよ」 「今になってお嫁に行け、お嫁に行けなんて。そう思い通りにはならないわよ」 「あたしみたいにさせたくないから言ってるのよ」 「嫌《いや》。やりはじめた以上、あたしだって自分のお店を出したいわよ」 「お店、お店って言うけど、自分で一軒持って見なさい。疲れるだけなんだからね」 「とにかくあたしはやるの。一軒なんてケチ臭いこと言わないわよ。三軒も五軒も出してやるんだから」 「お前ね。言っとくけど、一千万のお店には一千万の苦労があるんだよ。倍の二千万のお店には、二千万分の苦労さ。お店なんて大きくなり過ぎると、自分の店じゃないみたいになっちゃうしねえ」 「自分でやって見れば判るでしょう、そんなこと。それよりお母さん、結婚しろなんて言うけど、それじゃ七一五号室のほうはどうしたらいいのよ」  とたんに母親の表情がさっと気色ばむ。が、気色ばんだだけでなんにも言わない。 「それじゃ、今日のところは」  徳さんが風呂敷を包みはじめる。 「お父さんによろしくね」 「はい。そのうち遊びにうかがいたいと言ってました」 「そりゃいいわ。是非いらっしゃいって言っといてよ」 「かしこまりました」  徳さんはいかにも呉服屋らしく叮嚀《ていねい》に言って立ちあがる。 「ごめんね、徳さん」  雪絵が母子|喧嘩《げんか》したのを詫びながらドアへ送って行った。 「いつものことですから、慣れてますよ」  徳さんは笑ってドアの外へ出た。 「さて、今日は何を着て行こうかな」  雪絵は居間に戻ってケロリと言う。 「こないだ出来て来た結城《ゆうき》は……」 「あれは駄目」 「どうして」 「まだ仕付けを取ってもらってないのよ」 「だって日曜日に」 「あの時忘れちゃったのよ」 「そんなことじゃ駄目だよ。今度から新しい着物が届いたら、すぐ下の部屋へ持って行くようにおし」 「そうね」  雪絵は素直に頷《うなず》くと居間のとなりの和室へ消え、何枚か畳紙《たとう》に入った着物を居間へ持ち出して来た。 「これでいいかしら」  母親はマッサージ機にもたれて体を小きざみにゆすりながら、娘が開いた畳紙の中を見て、 「今日は誰が来るの……」  と訊《き》いた。 「アーさんにイーさん」 「それじゃ駄目だわ」 「どうして」 「それはウーさん好みよ」 「あ、そう言えばそうね」 「唐糸紬《からいとつむぎ》があったでしょう」 「どっちの……」 「青鈍色《あおにびいろ》のほう。ほら、イーさんの会社のパーテーに着て行った臈纈《ろうけつ》染めの奴《やつ》よ」 「あ、そうそう。今日は何人かイーさんの会社の人も一緒だって言うし。やっぱりお母さんだわねえ」  雪絵はまた和室へ入り、箪笥《たんす》の音をさせて母親の言った着物を出して来る。そういうことになると、雪絵は全面的に母親の意見を聞きいれるのであった。母親はホステスとして大先輩に当たるからだろう。  七時半、雪絵はいつものように無線タクシーを呼んで銀座へ出勤して行った。低血圧で午後二時すぎでないと起きないしのぶも、その時刻にはかなり元気そうで、娘を送り出すとすぐに自分も鍵《かぎ》をチャラチャラ言わせながらエレベーターで下へおりた。  七階の廊下へ出ると、しのぶは七一五号室のドアをあけて中へ入る。十一階と同じお香の匂いが漂っている。  しのぶ母子の部屋は4DKだが、そこはダブル・ベッドを置いた寝室と、かなり広い居間、それにキッチンとバスルームという間取りであった。  居間にウォルナットのホーム・バーのセットが置いてあって、普段は飾り扉がしめてある筈《はず》なのにあけっ放しになっている。灰皿には吸殻《すいがら》、グラスにはのみさしのブランデー。 「やれやれ」  しのぶはそうつぶやきながらパートタイムの掃除婦よろしく、掃除道具を出して甲斐甲斐《かいがい》しく働きはじめた。  府田川忠広《ふだがわただひろ》、五十九歳。それが二十八歳になったばかりの雪絵のパトロンである。七一五号室は府田川と雪絵の愛の巣というかお遊びの場所というか、要するに情事のかくれ家なのである。十一階の部屋はそのフーさんが雪絵母子の為に借りてやっているのだ。ということは、フーさんのお遊びもかなり高くついているわけだが、何しろ財界でも知られたお方だから大して痛痒《つうよう》を感じている筈もない。  しのぶはそうした娘の情事の部屋のハウスキーパー役になっているのだが、別に心が痛むようなそぶりもない。テキパキと要領よく片付けて行く。実は母子とも家事の能力は卓越している。綺麗好《きれいず》きで手早くて、料理も上手なのだ。 「ああら、いらっしゃいませ」  銀座のクラブで雪絵が甲高い声で言う。いつも仲間の先頭に立って、まるでそこが自分の店ででもあるかのように切りまわしているのだ。だからいい客が来たときは、決して斜に構えた迎え方などしない。黄色い声でいともうれしそうに、 「ああら、いらっしゃい」  と飛びついて行き、客の腕にぶらさがるようにして、その実あらかじめ用意万端整えてある席へ、すらすらっと運び込んでしまう。  そのテーブルへ出すオードブルなどは、店へ入ってすぐ裏へまわって点検している。皿の内容を睨《にら》んで、 「これ、いくらで出すの」  とレジに訊《き》いたりする。自分の心づもりより安いと目を三角にして文句をつける。 「もっとちゃんとしといてねっ」  と何事も自分の設計通りにしてしまうのだ。だから、 「何よ、ママでもないのに」  などと反感を持つホステスもいないではないが、何しろ母親ゆずりの古いいい客をたくさん持っているから、かげでコソコソ言われはしても、面と向かって対立して来る者は一人もいない。また本人もそこの所は結構心得ていて、裏方やボーイたちには折り折りの心づけを怠らないし、自分の使い易いホステスは帯、羽織、ネックレスなど、相手次第で品こそ変れ、気前よくばら撒《ま》いて味方につけている。  が、そのくせ、ヒラヒラと席から席へまさしく蝶《ちよう》のように飛びまわってはいても、情事の尻《し》っ尾《ぽ》は人に決して把《つか》ませない。府田川のことだって、知っているのはママばかり。  その配慮は相手の立場を思ってというよりも、自分の将来にとってマイナスにならない為だ。雪絵のような立場では、いくらいい相手と結ばれたって所詮《しよせん》は夜のお遊びで、いずれは別れてしまうことになる。そしてまた次の相手へ移って行くのが判っているから、何某の女と噂《うわさ》が立って得になることはひとつもない。その点では雪絵など、自分を遊び女《め》と定めてしまっていっそすがすがしいくらいなのだ。  しかしそこは女。 「雪絵ちゃんを呼んで頂戴」  雪絵の母親であるしのぶの後輩に当たるその店のママが、マネージャーに厳しい声で言った。マネージャーはすぐアーさんたちの席へ行って、 「雪絵さん、お電話です」  と告げる。 「はいはいッ……」  うたうように雪絵は軽く言って席をぬけ出す。実はマネージャーがそう言いに来たときはママの用事だとサインがきめてあるから、雪絵は電話の前を素通りしてまっすぐに裏へ行く。 「友納さんが見えてるわね」  ママがいきなり言った。 「エヘヘ……」  雪絵は笑って誤魔化そうとする。 「駄目よ。しのぶさんに判ったらあたしが叱られちゃうんだから」 「大丈夫ですよ。心配しないで」 「するわよ。友納さんくらいの人ならいくらでもいるじゃないの。お願いだからやめて」 「はぁい」  声だけはおどけた返事だが、雪絵の表情は明らかに不服そうだ。 「フーさまやアーさんたちみたいなご年輩のかたにはあなた強いけど、本当はまだ世間知らずのお嬢さんなのよ。友納さんみたいに若い人が相手だと、嘘《うそ》みたいにコロコロいかれちゃうんだから」  ママの目には何やらいたましそうな光があった。しかし雪絵は気付かない。 「つまみ食い。つまみ食いよ。ママ、お願い、お母さんには内緒にしといて」 「仕方ないわねえ。そのかわり、本当につまみ食いよ。深入りしちゃ嫌よ」 「判ってます。あたし、結婚なんてする気がないんです」 「だから心配なのよ。あんたみたいな人は、最初のうちたいていそういう綺麗なことを言うんだわ。ところが、結局はつまらない安サラリーマンに引っかかって、生きるの死ぬのって騒ぎになって……」 「うまくやります。あたしだってたまには息抜きが要るんです。だから」  雪絵は両手を合わせた。ふざけているようだが、ちょっぴり本気が顔を出している。 「本当はみんなそこからはじまっちゃうんだけどなあ」  ママは残念そうな表情でつぶやいたが、 「ほかにご用は……」  と雪絵に言われ、 「いいわ」  と釈放してしまった。  府田川は仕事でカナダへ飛んでいる。だから雪絵は解放感を味わっていたのだろう。  いつもみこしのあがるのが遅いアーさんやイーさんをうまくあしらって早めに帰し、それとなく友納が一番最後に残るように仕向けてしまった。 「友ちゃんベロベロじゃないのさ」  帰りかけたホステスの一人が雪絵にそう言った。 「送ってくわ。適当に車に放り込んじゃうから大丈夫よ」 「そう……じゃ悪いけど、お先に」 「お疲れさま」  雪絵は店の一番奥の隅《すみ》に一人きりでいる友納のそばへ行った。中くらいの会社のサラリーマンである。 「さ、帰りましょ」  雪絵は席に坐らず、友納のそばに立ったままで言う。 「ん……」  友納はとろんとした目で雪絵を見あげ、 「お、そうだそうだ」  と急に勢いよく立ちあがる。そのはずみにサワーグラスが倒れかけ、雪絵の手が素早くそれを支えた。 「行こう行こう」  友納は先に立って歩いた。案外足どりはしっかりしている。 「お疲れさま」  ボーイの一人がすでに雪絵のハンドバッグを持って出口のところに待っていた。 「友ちゃん、お荷物は……」 「ない、そんなもの」 「有難うございました」  店の男たちがエレベーターまで送る。 「お先に」  友納とエレベーターに乗った雪絵は、男たちにそう言い、ドアがしまった。 「腹、どうだ」 「すいてるわ」  雪絵は友納の腕につかまって答える。 「何を食いたい」 「赤坂に知ってるお店があるの。ねえ、そこへ連れてって……」 「よし行こう」  エレベーターがとまりドアがあく。 「車が混んでる時間よ」 「そうだな」 「こっち」  雪絵はハイヤーの待っているほうへ友納を連れて行った。だいぶ以前のことだが、雪絵がタクシーに乗ろうとして酔っ払いと奪い合いになり、ちょっと撲《なぐ》られたことがあった。それ以来、帰りの車は府田川がハイヤーを毎晩出してくれることになっているのだ。  その車で赤坂のサパー・クラブへ行き、それからまた六本木へ引っかかって、雪絵はそこでハイヤーを帰してしまっている。近距離なのに待たせすぎるのは気の毒だと、そんな夜はたいてい途中で帰してしまうのであった。  が、その夜の理由は違っていた。最後の行先を運転手に知られたくなかったのである。  やや高級なラブ・ホテル。  店のママが心配するほど、雪絵と友納の関係は進んでいなかった。その夜まで体《からだ》のことは全くなかったのである。  だが雪絵は少し酔った。酔って友納が荒れている理由を聞いた。友納の妻は三つ歳下で、それが会社の同僚と浮気をしたというのである。  雪絵はそれを聞いて腹を立てた。友納の同僚が浮気の相手だという点にである。 「何よ、あたしたちのことをばかにしてたって、自分たちのほうが余程|汚《きた》ないじゃないの」  もとより友納に好意以上のものがあった。酒と腹立ちが同情と決断を呼んでしまった。友納にキスされ、その若々しさに眩惑《げんわく》もされた。  で、ホテルへついて行ってしまったのである。  ところが友納は酔い切っていた。案内して来た女に料金を払い、ドアに錠をかけて振り向くと、もう友納はベッドのそばの床に倒れ込んで眠っていた。  髪を解き、化粧を落したが、それでも起きる気配がない。そのうち雪絵も眠くなってしまった。  とりあえず、のつもりでベッドの枕《まくら》を床に並べ、友納の頭の下へそれを押し込むと、毛布をはがして体にかけてやり、自分も長襦袢《ながじゆばん》姿になってとなりに寝てしまったのだ。  目がさめると灯《あか》りを消したのに室内はもう明るくなっており、友納がじっと顔をのぞき込んでいた。 「君までなぜこんなところに寝てるんだ」  友納はふしぎそうに言った。 「だって……あなたを床に寝かせて、あたしがベッドで眠るわけに行かないじゃないの」  雪絵はごく当然のように答えた。それが彼女の受けた教育であった。いや、教養というべきかも知れない。 「雪絵……」  友納は声をつまらせた。 「君はなんて素晴らしい女なんだ」  涙ぐんで手を握られ、雪絵は照れたように起きあがった。  その朝、雪絵は母親に何と言おうかと思い悩みながらマンションへ戻った。  それでなくても朝帰りは恥ずかしいのに、十一階の廊下でとなりの部屋の女に会ってしまった。彼女もどこかのホステスらしかった。  黙って頭をさげて通りすぎようとしたが、女が廊下に立ったまま泣いているのに気付いた。 「どうなさったの……」  照れかくしもあって、ついそう訊いた。女は泣きじゃくりながら説明した。  白いスピッツを飼っていたのだ。もう老犬で白い毛が黄ばむほどだったという。それがドアをうっかり開け放していた隙《すき》にトコトコと外へ出て階段をおり、どこかへ行ってしまったのだ。生まれてこの方マンションの中に住んで、ろくに外へ出たこともないから、ゆうべ出たきり今になっても戻らないのだという。 「迷子になってしまったにきまってるわ」  女はそう言ってまた泣いた。 「帰ってくるわよ」 「でも、何だか淋《さび》しくて悲しくて……」  雪絵は瞼《まぶた》が熱くなった。自分もそのスピッツと同じだと思った。はじめてマンションを出て、どうやら迷子にならずに帰れはしたが、またこのコンクリートの壁の中で飼われるのだと思ったら悲しくなってしまったのだ。 「ちょっとお入りにならない」  一人で帰るより心強くもあったので、雪絵はそう言って自分の部屋のチャイムを押した。きつい顔でしのぶが顔を出したので、 「どうぞ」  ととなりの女に言って機先を制し、二人で中へ入った。 「お母さん、コーヒーでもいれて差しあげて」  しのぶもとなりの女の顔は知っていた。 「どうなさったんですか……」  と尋ねながらキッチンへ行き、女は雪絵の示したソファーへ坐《すわ》ろうとして、急に立ちすくんだ。  じっとソファーにかけた羊《ムートン》の毛皮をみつめていた。白くて少し黄ばんでおり、四足獣の形がはっきりしていた。 「ひどい……」  女はそう叫ぶと、キャーッと泣き喚《わめ》いて部屋をとび出して行った。たしかに老いたスピッツそっくりの毛皮だったが、それにしても、それを迷子になった自分の犬とつなげて考えてしまうのは、錯乱も度がすぎていた。  しかし、夜昼かまわずキャンキャンと吠えるのだけが取り柄のスピッツに、それほどの愛情をそそいでいたとすれば、何やら気の毒でもあった。 「あの人の気持、判るわ」  雪絵はそうつぶやいたが、しのぶは怒っていた。 「何よ、あの女は」  それからすぐ母子は外泊のことで言い争いはじめた。  三日後、府田川が七一五号室へ来て、雪絵は新調の着物三枚の仕付糸をパトロンに抜かせ、いつもよりサービスにつとめた。  だが、友納はすっかりとりのぼせてしまっていた。妻と別れることにきめ、雪絵と再婚する気になり切っているのだ。 「すまないが、はじめはただのホステスだと思っていた。でもあのごろ寝のこと以来、僕の考えは全然違ってしまった」  と、雪絵をまるで奇蹟《きせき》的な存在のように褒《ほ》めちぎり、心酔し切っているのだった。雪絵もそれは満更でもない気分なのだが、あの晩のようには踏み切れないで、適当にあしらっている。 「どうする気。あの人、毎晩来てるじゃないの」  ママがまた裏へ雪絵を呼んで言った。 「大丈夫よ。今にきっと……」  雪絵はその先を言うのをふとためらった。口に出すのが悲しいことのように思ったのである。 [#改ページ]   子 犬     1  孫左衛門《まござえもん》は草いきれのするいつもの小径《こみち》を登って行った。さして高い丘ではないが、そこは城の真北に当たっており、頂きにあがると川がすぐ下を流れているのが見えた。  その川を背に、孫左衛門は城を眺《なが》めた。丘の上には一本の樹木もなく、六月の強い日射《ひざ》しが、容赦なく照りつけている。しかし、孫左衛門にとっては、その日射しの強さまでが吉兆のように思えるのであった。  ゆらゆらと陽炎のたつ大地に、いま新しい城がひとつ生まれ出るのであった。十万もの人間がその城を誕生させようと、この炎天のもと、肌《はだ》を汗で濡れ光らせて、逞《たくま》しく立ち働いているのだ。  降るなよ。  孫左衛門は白い夏雲をふり仰ぎ、喚《わめ》くように心の中で言った。隠居したとはいえ、心も体もまだ老いてはいないつもりであった。城の作事場に近付くと、いまだに胸が躍《おど》りだすのである。  城はすでに天守の石垣《いしがき》をあらわにしていた。新しい石垣は孫左衛門が見たどんな城のものよりも白かった。真夏の日光を照り返して、眩《まぶ》しいほどであった。  孫左衛門は陶然とした面持ちでそこに立ちつくしていた。築城に力をかしている諸大名の名を、心の中で数えるように呼びあげているのだ。  伊達《だて》、南部、蒲生《がもう》、最上《もがみ》、上杉、佐竹、仙石、真田《さなだ》、村上、溝口《みぞぐち》、そして加賀の前田家。これだけの顔ぶれであれば、どんないくさでもまず敗れることはあるまい。何と頼もしいことであろうか。徳川の天下はますます確固としたものになっている。したがって、越後松平家もこの先いっそう威を張り、重きをなして行くに違いないのだ。  越後松平家。  孫左衛門はいとしいものを撫《な》でさするように、心の中でゆっくりとその言葉を繰り返した。新鮮な活気を感じずにはいられない言葉であった。  儂《わし》は何という倖《しあわ》せを得たのだ。十五年前、妻子を三河に置いたまま、あわただしく武蔵《むさし》の深谷《ふかや》へ赴いた時は、故郷から引きはがされたという思いだけが強かったものだ。主君忠輝はまだ八歳。長沢の松平家を嗣《つ》いで、武蔵深谷でただの一万石を領したに過ぎなかった。本家に口説《くど》かれて追いたてられるようにその深谷へ向かったのは、雪の降る寒い朝のことで、深谷へ着いたのはちょうど大晦日《おおみそか》であった。新春を迎える仕度で忙殺されている人々の間へ、他所者《よそもの》として身ひとつで踏み込んで行った時の、あの物哀《ものがな》しい心細さはいまだに忘れられない。それはちょうど太閤《たいこう》が没した翌年で、次の年には関ケ原の合戦があった。儂は徳川家の隆運を、じかにこの身に分け与えられている。孫左衛門は溢《あふ》れるような満足感の中でそう思っていた。  三河時代の川村家は、本家の長左衛門が五十石で、孫左衛門は十石。日常は百姓とさして変るところがなかった。それが今ではお納戸《なんど》役で三百石。実に三十倍になっている。この春あとを嗣いだ孫次郎の評判もまずまずらしく、二の丸に持場を当てがわれ、臨時の組頭《くみがしら》として働いている。  深谷のあと、一年置いて主君忠輝は下総佐倉《しもうささくら》四万石に転じた。その頃《ころ》には、孫左衛門にも家康の六男として生れた忠輝を主君と仰ぐことの意味が判りかけていた。だから忠輝が佐倉の領主となって間もなく、家康の九男義直に甲斐《かい》二十五万石が与えられた時は、わがことのように歓声をあげたものだった。  期待は裏切られず、それからは慶事ばかりが続いた。忠輝は信濃《しなの》川中島十四万石の主となり、家康は遂《つい》に将軍位を得た。まったく、孫左衛門にとっては走る雲にとび乗ったような数年間であった。家康が将軍位を秀忠に譲った年、忠輝は右近衛《うこんえ》少将に補せられ、将軍名代として大坂城に赴いてその英邁《えいまい》な資を噂《うわさ》されたりした。  その忠輝が十五歳になると、周囲は待ちかねたように妻を娶《めと》らせた。花嫁は伊達政宗の娘であった。補佐役が家康の最も信任厚い大久保|石見守《いわみのかみ》である上に、伊達家の姫君が嫁したとなれば、もう忠輝の地位はゆるぎようもないほどであった。  それでもなお、孫左衛門たちは主君の不遇を口にしたりした。将軍位を嗣《つ》いだ秀忠は別としても、忠輝の兄秀康は越前で七十五万石、弟の義直は尾張五十三万石、同じく頼宣は駿府《すんぷ》に置かれて五十万石であり、忠輝ひとりが十四万石に過ぎなかったからである。ところが急に越後が与えられ、川中島領と併《あわ》せ七十五万石となって兄弟間の均衡を得ることになった。越後の堀家に内紛が起った為《ため》である。家康は堀家の幼主忠俊を除封し、忠輝にそのあとを治めることを命じた。  そして今、この高田に新しい城が築かれている。 「ここが儂らの故郷になるのだ」  孫左衛門はやっと城から目をそらし、あたりを眺めまわした。背後で東西に流れる川が、その丘の少し上流で大きく南に曲がり、城の左側をうねうねと山へ向かっている。 「遂にこの地へ辿《たど》りついたというわけか」  孫左衛門は丘を下りはじめた。三河から深谷へ辿った寒い道が、越後まで来ておわりになっていたように感じているのだ。忠輝の立場や周囲の情勢を考えると、もう移封されることもないようだった。  孫次郎に墓は城の見える場所に作れと言おう。孫左衛門はそんなことを考えながら、蝉《せみ》の鳴く川沿いの木立のほうへ歩いて行った。     2  家へ戻った孫左衛門は、いつものように仏壇の前へ坐《すわ》って合掌した。孫市の霊に築城の進み具合を報告しているのだ。  子供は五人おり、男は孫市と孫次郎の二名である。三人の娘はみな他家へかたづいている。総領の孫市は残念なことにおととしの初冬、呆気《あつけ》なく死んでしまった。当初は孫左衛門はじめ家の者たちも、単純なはやり風邪《かぜ》であろうと高を括《くく》っていたが、床についてから二日二晩高熱を発し続け、三日目の払暁に息を引取った。看取《みと》った医師は、余程|体《からだ》の芯《しん》に疲れがたまっていたのだろう、と言った。  医師に言われずとも、孫左衛門には大いに思い当たる所があった。その頃すでに、現在の城普請の基礎がためとも言うべき仕事がはじまっていたのである。  本丸や二の丸が築かれている辺《あた》りは菩提《ぼだい》ケ原《はら》と呼ばれ、それを囲むように関川と矢代川の古い川跡がえぐられていた。その川跡を利用して城の外堀とする為に、孫左衛門たちははやばやと高田に乗り込んで新しい川を掘削していたのである。  先乗り孫左。  忠輝が武蔵深谷に一万石の所領を得た時、長沢松平家の侍《さむらい》として第一番に単身現地へ赴かされて以来、孫左衛門は家中の者からそんな綽名《あだな》をつけられていた。下総佐倉の時も即日現地へ旅立っていたし、川中島へも殆《ほと》んど全行程を駆けるようにして一番に乗り込んでいる。勿論《もちろん》、越後入りの際も同じである。仕事は後続の家臣たちの、とりあえずの宿舎の手当てその他であったが、度重なる移封ですっかり手際《てぎわ》がよくなり、先乗りは川村孫左衛門の仕事ときまってしまったのであった。  主君松平忠輝は、そのあわただしい時期を殆んど江戸で過し、領国に腰を据《す》えたのは越後を得てからである。が、その時すでに新城築城の計画が生まれていたらしい。忠輝はとりあえず堀家の主城であった福島城に入ったが、間もなくその後背地である高田へ城下の町々を移転させるべく動きはじめた。  当然のようにその初期、先乗り孫左が駆り出されたのである。孫左衛門は倅《せがれ》の孫市と共に、必死でその任務を果たそうと努めた。二百石が三百石に加増されたのはその働きを認められたからであろう。しかし、新川掘削のほか、道路橋梁《どうろきようりよう》の建設から神社仏閣の造営まで、従来の先乗りとは異り孫左衛門親子の仕事は際限もなく拡大したのだった。  その頃すでに孫左衛門は隠居を考えており、その為|苛酷《かこく》なまでに孫市を前面に押し出したのである。後日大規模な城普請が行なわれることは明白であった。その騒ぎに紛れて、先乗りの川村家の手柄を薄れさせてはならなかったのだ。  孫市もよく父の意を汲んで精励した。そして孫左衛門は倅《せがれ》の若い体力を信じて疑わなかったのだが、結果は無残にも孫市の早世を招いてしまったのである。だが、悲嘆に暮れているいとまはなかった。本格的な城普請が孫市の死をきっかけにしたようにはじまったのである。  それは表向き、まず忠輝の生母|茶阿《ちやあ》の局《つぼね》の依頼により、金地院崇伝《こんちいんすうでん》が吉凶、方位を占うことからはじまった。すでに孫市たちが基礎を作りおえているのであるから、崇伝の占いが凶と出る筈《はず》もない。高田築城が公式に決定すると、伊達政宗が普請総取締となり、なまなかのいくさどころではない勢いで諸大名が越後に集合したのである。何と、政宗自身が越後入りする始末なのだ。  それを機に、孫左衛門は次男の孫次郎の相続を願い出て、自分は隠居することになった。それは家中に孫市の犠牲を印象づけ、主家の盛運に川村家をあやかりそびれさせぬ為の策であった。孫左衛門の狙いはたがわず、家中は大いに川村家の功績を認め、孫次郎は今、組頭として二の丸の現場にいるのであった。孫次郎より五歳年上である川村本家の長十郎が同格の組頭だから、孫左衛門にはそれ以上望むべくもない結果である。 「おや、おいでなされませ」  合掌する孫左衛門に美和の声が聞えた。死んだ孫市の妻である。 「よいよい。こちらから参る」  その声で客が判った。本家の川村長左衛門であろう。どうやらいきなり庭へ廻《まわ》ったらしい。 「今日もよく照るな」  案の定、長左衛門が姿を現わした。孫市の遺児である松之助の肩に手を置いて、押すように歩いて来た。 「まったくよいあんばいで」  孫左衛門は仏壇の前を離れ、庭に面した縁先へ移った。庭と言ってもその家はもと農家であるから風情《ふぜい》があるわけではない。しかし、それが先乗り役の利得で、陽当り風通しともによく、部屋数も多くて大きな納屋《なや》が別についていた。今のところは本家の住居より格段と整った家であった。 「本丸の辺りまで行って見て来たところだ」  長左衛門は縁先に腰をおろしながら言った。 「祖父《じい》さまはついいましがた、いつもの場所から戻られたばかりです」  松之助は丘のほうを指さして言った。長左衛門は笑って孫左衛門を見た。 「儂らはまだ隠居慣れがせぬようだな」  孫左衛門も笑顔で頷いた。 「見事な石垣だが、上杉家はだいぶ苦しんでいるらしい」 「仕方のないことでしょう」  二人とも、上杉家が最も難《むず》かしい部署を当てがわれることを、はじめから予想していた。関ケ原で石田三成に通じたからである。案の定、天守の石垣と内堀の掘削を担当させられて苦心|惨憺《さんたん》しているのであった。     3 「それにしても、城ひとつがこれほど早く作れるものなのだな」  長左衛門は溜息《ためいき》まじりに言った。 「考えの大きさが違うのでしょう。大御所のなされようは太閤に劣りません。要《い》る物は何としてもたちどころに整えてしまわれるのですから」  大坂の情勢は一触即発と言ったところらしい。となれば、越後に今必要なのは、百二十万石の前田家に対する強力な防衛拠点である。その為にこそ昼夜兼行で高田築城が進められているのだが、その工事の一部を家康は前田家自身に受け持たせているのだ。前田家がこの築城に協力せざるを得ない一事をもってしても、孫左衛門たちには徳川家必勝の形勢が確信できるのであった。 「なあ孫左。前田の胸のうちはどのようであろうかな」  長左衛門はうれしそうな顔で言う。 「下級の者はとにかく、上に立つ者はすでに大坂に見切りをつけているのでしょう」 「だろうな」  長左衛門は大きく頷《うなず》く。 「前田はきっかけを待っているのだろう。太閤への恩義を切り捨てられる理由さえ手に入れば、喜んで徳川家につくに違いない」 「大坂のけりがついたら、この越後松平家はどのようになりましょうな」 「越後松平家か」  長左衛門もその言葉をたのしそうに言った。それは彼らにとって希望と期待を沸き立たせる言葉であった。 「何と言っても儂らは最古参だ。殿のご運が続く限り悪かろう筈がない。それぞれに登れるところまで登りつくすまでよ」  長左衛門はそう言って大声で笑った。松之助は老人たちの話に飽きたらしく、その笑い声をしおにさっと外へ駆け出して行った。 「ところで孫左」  長左衛門は笑いおえると今度は少し声を落して言った。 「孫次郎の嫁をどうする気だ。もう二十四にもなっているのだぞ」  孫左衛門はすでにその問いに対する答え方を用意していた。 「勝つときまったいくさでも、死ぬ兵はいくらもおります」 「それはそうだが」 「大坂にいくさが起れば、当家も兵を出すことになりましょう。何せわが家は先乗り役ですから、孫次郎に矢玉が当ることも覚悟せねばなりますまい」  長左衛門は深刻な表情で頷いた。 「あと一年か二年」 「いくさの決着を見るまで、孫次郎の嫁とりは見合せようと言うのか」 「この家は後家は一人でたくさんです」 「成《な》る程《ほど》な。そういう気持でいるのなら、しばらくすすめんでおこう。さいわい孫左には松之助が残っている。孫次郎に万一のことがあっても、松之助がいれば安心だからな」 「そのかわり、天下が治まったら孫次郎にとびきりの嫁をお世話ください」 「とびきりのか、おお引受けたとも」  長左衛門が胸を叩《たた》いて請負《うけお》ったとき、美和が井戸の冷たい水を茶碗に入れて運んで来た。  孫左衛門の妻は六年前に死んでいて、今は後家の美和が主婦の座を占めている。綺麗《きれい》好きでよく気がつく優しい女であった。  孫次郎の妻帯を引きのばしているのは、その美和のことも考えているからであった。嫁をもらえば子ができる。孫左衛門の計算では、今年十一になる松之助と、孫次郎の子供の年齢差を、できるだけひろげて置くつもりなのである。そうすれば、孫次郎の跡を自然に松之助が嗣ぐことになる。それが無理をして死なせた孫市に対する、親としてせめてもの心づくしであった。     4  高田の城普請には天までが加勢するのか、何日も炎天が続いて雨の気配すら起らなかった。が、孫左衛門にとっての破局は、その炎天のまっ只中《ただなか》で起った。  いつものように丘からおりて家の近くまで来ると、乾き切った道を一人の若者が砂埃《すなぼこ》りを巻きあげて駆けて来るのが見えた。その激しい走りように孫左衛門はふと足をとめ、木戸のところにたちどまって眺めた。 「孫左どの。孫左どの」  その若者は孫左衛門の姿を見て、甲高《かんだか》い声で叫《さけ》んだ。 「何事でしょう」  美和も出て来て孫左衛門のうしろに立った。 「うろたえている」  孫左衛門は不安を感じながらつぶやいた。 「孫左どの」 「どうした」  孫左衛門はその不安を吹きとばすように大声を出した。 「刃傷《にんじよう》」 「なに……」 「刃傷です。刃傷です」  若者は息を切らせて言い、二人のそばへ来るとしばらくは喘《あえ》いで物も言えない様子であった。 「はっきり言え」  孫左衛門が叱《しか》りつけた。 「孫、孫次郎どのが」 「何だと」 「孫次郎どのが作事場で刃傷に及ばれました」 「相手は」 「う、上杉のご家中」  孫左衛門は、たぁっ、と言って拳《こぶし》を握りしめた。自分の顔から血の気の引いて行くのが判《わか》った。 「か、勝ち負けは」 「相うち。浅手ながら双方血を見ました」 「愚かなことを」  孫左衛門は喉《のど》の奥からしぼり出すような声で言った。同時によろりとよろけて木戸の柱につかまった。あたりの物が一気に遠のくような気がした。 「本丸と二の丸をつなぐ仮橋のそばで、いきなり双方とも脇差《わきざ》しを抜いて斬《き》り合ったのです。あたりには大勢おりましたが、とめるいとまもなく……。この半月余り、上杉方との間にいさかいのようなことが続いておりましたが、遂にそれが」 「言うな。言うな」  孫左衛門は両手を耳にあてがって激しく首を左右に振った。  同じ家中の者同士ならともかく、他家の者と真昼間、衆人環視の中で白刃を抜き合うとはどういうことなのだ。伊達、南部、蒲生、最上……。孫左衛門の頭の中で、いま高田に集まっている諸大名家の名が、ところきらわず突き刺すように暴れまわるのだった。 「浅手なのですね」  美和がたしかめている。 「そうです。孫次郎どのは腿《もも》のあたりを……しかし、見苦しい振舞いはございませんでしたぞ」 「そんなことはどうでもかまわん」  孫左衛門は喚いた。 「すぐ立ち戻って、あとの成り行きを見て来てくれ」  孫左衛門にそう言われると、若者はくるりと背を向けて城のほうへ走り出した。 「どうなされます」  美和が孫左衛門の背中をさするようにして言った。それほど苦しげに見えたのだろう。「判らん」  孫左衛門はそう言うと大股《おおまた》で家の中へ入り、廊下を踏み鳴らして座敷へ行くと、いきなりごろりと横になってしまった。  まさかこのようなことが……。  孫左衛門は黒ずんだ梁《はり》を見あげながら思った。すべてを一瞬のうちに突き崩《くず》してしまうような場所があろうとは、思っても見ないことであった。そして孫次郎は、その小さな点のような場所を、力まかせに叩いてしまったのだ。  どうすれば救えるのか……。  その答えはなかった。逆に救いようのないことがはっきりとするばかりだ。せめて夜のことであったら。せめて同じ家中の者同士であったら。せめて人目につかぬ場所であったら。せめて上杉の家中が相手でなかったら。孫左衛門はおのれの犯した失敗であるかのように、臍《ほぞ》を噛《か》むようにそう思うのであった。  ついさっきまで、孫左衛門が誇りに思い、頼りにし、得意に思っていた事柄が、すべて逆の方向に働きはじめていた。有力な諸大名の協力を得ていればこそ、決して自分たちの中から刃傷沙汰に及ぶ者を出してはならないのであった。その協力者の中でも、とりわけ懲罰的に動員を受けている上杉家とだけは、問題を起してはならなかった。大御所家康は、この城普請をも来るべき大坂のいくさの一環として考えているに違いないのだ。その立場から見れば、上杉を離反に追い込むようなことは絶対にしてはならないのだ。また、主君忠輝が家康の直系であればこそ、他家の範とならねばならず、その家中から軽挙する者を出してはいけなかったのだ。  それなのに、あろうことかあるまいことか、本丸と二の丸をつなぐ仮橋のそばで。  石垣や櫓《やぐら》や、そこここの足場などに見物人が鈴なりになった中で白刃をひらめかす、わが子のさまが目に泛《うか》んだ。  してはならないことだった。あってはならないことだった。夢ならさめよ。孫左衛門は両手で頭をかかえ、身を揉《も》むようにしてそう思った。     5  新しい墓の前で、長左衛門がことさら冷たい声を作って言った。 「孫市が死んだ時、お主の家はすでに絶えていたのだろう。孫次郎は仇《かたき》の生まれかわりだったのだ」  長左衛門が何とかして今度のことを諦《あきら》め切らせようと言っているのはよく判った。しかし、その気持が判っていても、孫左衛門には空々しく聞こえてならなかった。 「すべてはおわった」  孫左衛門はつぶやくように言うと墓の前から立ちあがった。その墓は川におりる斜面に作られていて、絶対に城は見えない位置であった。  美和は孫市と同じ墓に葬るよう強くすすめたが、孫市と一緒では孫次郎も辛かろうと言って、孫左衛門はとうとう我を通してしまった。自分の墓を城のよく見えるあの丘の上あたりに作らせようと思っていたことが、孫左衛門をかたくなにさせたようであった。  喧嘩両成敗。  普請総取締の政宗の代理として伊達家の老臣片倉小十郎が事件の処理に当たり、争った両名を作事場の外へ出さず、即日切腹を命じた。上杉家にも松平家にも、処分の通知があっただけで、相談めいたことは一切行なわれない果断の処置であった。  その一方で、政宗は好天祝いと称して各大名を宿舎に招待し、饗応《きようおう》した。事件のことはあってなきが如《ごと》くになり、上杉、松平両家もその巧みなとりなしに安堵《あんど》の色を隠さなかったようである。  そのかわり、孫左衛門は重臣の一人である松山左近から厳しく責任を問われ、家名の廃絶を申し渡された。本家の川村家が五十石の減俸ですんだのは不幸中の幸いと言うべきであっただろう。  だが、非はどうやら上杉方にあるらしかった。もともと懲罰的に難工事を押しつけられていたことであるし、日増しにつのる忿懣《ふんまん》はいつ爆発しても不思議ではない程であったと言う。松平側は毎日のように挑発されて、忍耐の限界へ達していたということだ。上杉家の者たちは、ひと騒動起してでも、主家にこのばかげた難工事から手を引かせようと考えていたらしい。  しかし、いかにせん起してはならぬことであった。そのような情勢の中では、非情な裁きもまたやむを得なかったのであろう。ともあれ、川村孫左衛門は禄《ろく》を離れることになった。  孫左衛門は身の処し方をきめかねていた。故郷の三河にも、すでに帰るべき土地はなかったのである。ましてすでに隠居の生活に入っている年齢の侍が、再度仕官のできる筈もなかろう。考えがまとまらぬままに日を送る内、城は呆気なく完成して諸家の人数はそれぞれの国へ帰ってしまった。 「あの城をよく見るがいい」  それでも習慣のように丘へ通っていた孫左衛門が、或る日連れて来た松之助に言った。「あの城には儂と、お前の父と、そして孫次郎の命がこめられているのだぞ。儂はな、先乗り先乗りして殿を三河からこの土地にお導き申しあげたのだ。そしてお前の父はあの城の土台作りに命を捧げた」 「叔父上《おじうえ》は……」  松之助はそう尋ねると、息をつめるようにして孫左衛門の答えを待っていた。 「孫次郎も城に命を捧げたのだ。あれが刀を抜かねば、誰か別の者が抜いていただろうからな」 「川村の分家はお殿さまに忠義を尽したのですね」 「そうだとも」  孫左衛門は不意に自分が涙ぐむのに気付き、目をしばたいて松之助の肩に手を置いた。「儂らの家は殿に忠義を尽し通した。そのことは誰も疑いはせん。よいか、松之助。儂らはこの先も殿に忠義を尽すのだ。たとえ侍をすて、百姓になっても忠義は尽せるのだ。儂らはこの土地から決して離れまい。一心に慕う者を誰が見すてられようか。今度のことは、お家が大御所はじめ諸大名の機嫌《きげん》を損じまいとした結果なのだ。早く大きくなれ。お前は立派な侍にならねばならん。忠義だ。忠義を忘れるな。あの殿を亡き父とも思ってお慕い申せよ」 「はい」  松之助は大きく頷き、孫左衛門はその肩をうしろから抱いて涙を流していた。完成したばかりの城が、その二人の前方に晩夏の夕陽を浴びて美しくそびえたっていた。  その帰り道、心をきめた孫左衛門は、松之助に向かって言っていた。 「儂が死んだらあの丘の上に墓を作ってくれよ」  松之助は素直にはいと答えた。     6  家康が方広寺《ほうこうじ》の鐘銘を咎《とが》めたのは、それからすぐあとのことであった。誰しも豊臣《とよとみ》家の行末を暗いものに感じたことであろう。  しかし、松平忠輝をもほの暗いものが掩《おお》いはじめていたのだ。その前年、忠輝の補佐役を勤めて来た大久保石見守が歿《ぼつ》し、その遺子らがすべて切腹を命じられていた。石見守の生前の所行に非違があったということであった。  次《つ》いで石見守の長男の松本城主石川|玄蕃頭《げんばのかみ》が豊後《ぶんご》に流され、その縁戚《えんせき》の宇和島城主富田信濃守、同じく延岡城主高橋|修理《しゆり》大夫《だゆう》が改易に処せられた。  しかしそれらは直接松平忠輝には累を及ぼさなかった。その証拠に石見守の一族が次々に処分される中で高田築城が進行していたのである。  ところがその処分が石見守の義父に当たる大久保忠隣に及んでからは、様相が少し変化しはじめた。家康の方針はどうやら切支丹《きりしたん》禁圧へと向かって行くようであった。豊臣家への圧力増加と併行して、高山右近ら耶蘇《やそ》教信徒の海外追放が行なわれ、ようやく切支丹に心を寄せていた忠輝の身を危ぶむ声がささやかれはじめたのである。  しかし、忠輝は大坂冬の陣においては、江戸城の守備について無難に年を送った。  どうやら家康は、自分が亡きあとの徳川家の安全について考えはじめたようであった。翌元和元年の大坂夏の陣では、忠輝の怠戦をあからさまになじったという噂《うわさ》が、いち早く高田へも流れて来たりした。 「いくさには味方同士の揉めごとがつきものだ」  野良に出て働くようになってから、孫左衛門はすっかり呑気《のんき》になって、そんな噂を聞いても別に案ずる気色は見せなかった。 「ことごとにおのれの行動を立身出世に結びつけていた侍の時より、扶持《ふち》を離れた今のほうが余程すがすがしく忠義が尽せるようだ」  孫左衛門はそう言い、松之助に文字などを教える一方で、近くの道や橋の補修に、無償の行為を続けているのだった。  ところがその秋、高田城に戻っていた忠輝のもとへ、駿府から容易ならぬ使者が到着した。人々が家康の大番頭と呼んで畏怖《いふ》している、松平勝隆であった。  孫左衛門はちょうど畑にいた。 「祖父《じい》さま、馬です」  松之助が甲高い声で知らせたので腰をのばして眺めると、意外にも長左衛門が老馬に鞭打《むちう》って駆け寄って来るところであった。 「何事だ」  孫左衛門は松之助と一緒に道のほうへ走りながら叫んだ。近頃松之助が飼いはじめた子犬がその足にじゃれかかっていた。 「忠輝さまご勘当」  長左衛門はその知らせを持って別な家へ行く途中らしく、馬上に背を丸め、投げつけるように一声叫ぶなり孫左衛門の前を馳《か》け抜けて行った。  孫左衛門は呆然《あぜん》としてそれを見送った。 「いったいどういう意味なのだ」  すぐにはご勘当という言葉を判じかねていた。 「殿さまご勘当、とおっしゃいました」 「勘当……誰に」  孫左衛門は失言を咎めるように松之助を睨《にら》みつけた。 「勘当……大御所にか」  思い当たって愕然《がくぜん》とした。咄嗟《とつさ》に頭に泛《うか》んだのは伊達家のことであった。忠輝に嫁したのは政宗の娘である。となれば政宗も忠輝の父に当たろう。家康と政宗が気を揃《そろ》えて忠輝を勘当することにきめたのであろうか。 「松之助、儂《わし》は本家へ行くぞ」  孫左衛門はそう言い残すと、長左衛門が来たほうへ走り出した。  なぜそんなことができるのだ。  走りながら孫左衛門はひとりで問い続けた。七十五万石の勘当など、この世にあろう筈《はず》がない。夏の陣の怠戦と言っても、聞けばそれは見解次第のことだそうではないか。政宗が承知していない勘当だとしたら、今度は徳川と伊達のいくさになりはしないか。  その齢で走り続けるのはさすがに疲れた。気はせいても息が切れ、足が思うように動かなかった。 「糞《くそ》、どうともなれ」  孫左衛門はあきらめて走るのをやめ、歩きながら呼吸を整えようとした。  呼吸が常に復しはじめると、何か心の中心にあった栓《せん》のようなものが、勢いよく抜けたような気がした。  これも大御所のご処分のうち。  ふとそんな言葉が頭に泛んで来た。孫次郎と松平忠輝ではへだたりが大きすぎようが、家康という人物の大きさを考えると、かつて孫次郎が受けた仕置も、忠輝勘当のことも、さして差があるようには思えなくなった。  孫左衛門は首をひねってあの丘を見た。登り道ではずっと城が見え続けたが、帰りには城が背になって見えなかった。主君の運をじかに分け与えられていたのだとしたら、道はとうに下り坂になっていたのかも知れないではないか。  その時になってはじめて、孫左衛門は孫次郎に嫁を持たせなかったことを悔いた。多分女の味を知らぬまま死んで行ったのだろう。自分の勝手な思惑でむごいことをしてしまった……。  本家へ着くとみな蒼《あお》ざめていた。たしかに松平勝隆は、家康の命を受けて忠輝に勘当を申し渡に来たのであった。  もう大御所はこの世に怕《こわ》い者がいなくなったのだ。伊達政宗でさえ、その件に口をはさむことはできなかったらしい。     7  高田の城下には、混乱を起す力さえなくなっていた。百姓町人に至るまでが、息をひそめて嵐《あらし》の過ぎるのを待っているような風情《ふぜい》であった。  勘当を受けたとは言え、松平家の所領はそのままで、忠輝は謹慎の実を示すべく、閉居の地に最初の所領である武蔵の深谷を選んでそそくさと高田を去ってしまった。  家臣らはみなそれを一時的な懲戒と受留め、忠輝が許される日までひたすら静穏に過そうと心がけていた。したがって、忠輝につき従った家来はごく少数で、あとは動こうともしていない。  孫左衛門も余り野良仕事にも出ず、松之助や子犬相手に庭で過すことが多かった。  そんな一夜、美和があらたまった様子で孫左衛門の居室に現われた。 「申しあげたいことがございます」 「何だ」  孫左衛門は思いつめたような美和の顔をみつめた。 「松之助を深谷へ差し向けていただきとうございます」 「松之助を深谷へ……」 「はい。当家は先乗り役として家中に親しまれた筈ではございませんか。お殿さまがご勘当とおきまり遊ばした折り、なぜ一番に深谷へおいでなされませんでした」  孫左衛門は、う、と言ったきり答えられないでいた。言われて見ればその通りなのだ。扶持を離れてはいても、先乗り孫左なら忠輝の一行の先を駆けて、まっ先に深谷へ行くべきだったのである。扶持を離れた身であれば、今回の場合なおさらそうし易い立場にあったのだ。 「わたくしは川村の家をこのままにしとうはございません」 「不覚だった。いつの間にか心が百姓になり切ってしまっていたようだ」 「口惜しゅうございます」  美和は涙を見せて言った。 「深谷は儂にとっても懐《なつ》かしい土地だ。今すぐにでも行けば殿のお役に立てよう」 「遅うございます」  美和はきっぱりと言った。 「ご家中のかたがたは、大御所さまのご機嫌《きげん》を考えて、みな金縛りにあったように動けずにおります。たとえ役には立たずとも、今年十三の松之助がおあとを慕って深谷へ参れば、お傍《そば》に置いて小者がわりにお使いくださるのではございますまいか。勘当をお受けとは申しながら、大御所さまのお子ではございませんか。いずれ遠からずご勘気もとけましょうし、その時には川村の家も旧に復するようお取りはからいいただけるやも知れません」  美和は必死に孫左衛門を説得しはじめた。 「松之助一人で大丈夫だろうか」 「いえ、あの子一人だからこそ望みも託せるのです」  たしかにその可能性は大きかった。すでに家臣の列から外されている上に子供である。松之助ならば咎めを大きくする気づかいもなさそうであった。 「よし」  孫左衛門は決断した。もう自分ではどうにもならないのである。まして、千載一遇とも言うべき深谷先乗りの機会をみすみす逸しているのだ。美和の言う通り、こうなったら松之助に望みを託すより方法がなかった。 「松之助」  孫左衛門は、残った矢玉を射ち切るような気合で孫の名を呼んだ。  それから二日間というもの、孫左衛門は松之助にあるだけの助言を与え、それを理解したかどうか執拗《しつよう》にたしかめた。  三日目の朝には旅仕度も整い、いよいよ松之助は深谷へ向けて旅立つことになった。松之助は思った以上にしっかりとしており、母や祖父と別れるのを悲しむどころか、勇み立った様子を示していた。  美和はそれ以上に気丈であった。まるで松之助をほんのとなり村まで使いに出すような態度で、自分は家の中にいたまま送り出してしまった。  かえって孫左衛門のほうが未練がましく、 「別れの前に丘へ登って城を眺めよう」  と、久しぶりに侍の姿に戻って一緒に丘へ登った。 「儂の墓のこと、忘れまいな」  そう言うと、澄んだ目で孫左衛門をみつめ、 「はい、その時はここに祖父《じい》さまのお墓をたてます」  ときっぱり言った。  が、いつかのように肩に手を置かれて城のほうを向いている内に、鼻をすすりあげはじめた。 「そうだろう。別れは辛いものだ」  孫左衛門がそう言うと、松之助は憤ったような声で否定した。 「違います。アカを連れて行けぬのが悲しいだけです」  アカとは子犬の名だった。ころころとよく肥えていて、今も松之助の足に湿った黒い鼻を押しつけているのだった。 「祖父《じい》さま、これでお別れしますけれど、アカをおさえていてください」 「おおそうだな。跡を追われては辛かろう」 「アカと母上をおたのみ申します」 「よし引受けた。忠勤をはげめよ」  松之助は子犬を見るのが辛いらしく、振り向きもせず丘を小走りに下って行った。孫左衛門は子犬を両手に抱きとめて、それを見送るばかりであった。  しかし子犬は喧《やか》ましく吠えたてた。松之助を慕ってどこまでも追いかけて行きそうだった。 「間もなく帰る。それまでの辛抱だ。また会う日まで、主《あるじ》の顔や匂いを忘れるでないぞ」  孫左衛門はまるでそれが松之助ででもあるかのように、子犬を優しく撫《な》でさすってやっていた。  松之助はみるみる遠のいて行き、やがて見えなくなった。孫左衛門はクンクンと悲しげに鼻を鳴らす子犬の目を、じっとのぞき込んでいた。  何のことはない、その目はおのれの目と同じであった。それに気付いた時、孫左衛門は汚《よご》れたもののように子犬を抛《ほう》り出した。子犬はチョロチョロと走って松之助の跡を追ったようであった。  主《あるじ》を一途に慕い忠義を尽すことは、結局おのれの腹を満たす算段ではなかったのか。松之助を慕う子犬の無垢《むく》な目は、そのことをまだ知らないというだけのことではないか。  松之助の目とアカの目が、孫左衛門の心の中で重なった。孫市も孫次郎も同じ目をしていたのだ。 「帰れ、松之助」  孫左衛門は丘の上で叫んだ。深谷への道は虚《むな》しさのはじまりだと教えてやりたかったのだ。自分が三河から辿《たど》った道と同じ道なのだ。長男と次男、そして今また孫までも手放してしまったのだ。  孫左衛門はとぼとぼと丘を下った。忠義の名のもとに、家族の命まで人に預け切り、頼り切っていた自分の生涯が、うとましくてたまらなかった。  松之助を呼んだ声を聞いて、子犬が駆け戻って来て、孫左衛門にじゃれつきはじめた。孫左衛門は自分がいつ刀を抜いたか、少しも意識していなかった。  ただ気が付いた時は、その刀がアカの胴を両断していた。そしてその子犬の死骸《しがい》を見おろしながら、いつまでも涙を流しつづけていた。 [#改ページ]   奸吏渡辺安直  廻船問屋《かいせんどんや》唐津屋《からつや》の江戸における店舗がどこであったか、今では詳《つまび》らかではない。一説によれば蠣殻《かきがら》町辺と言うが、これは多分|銀箔《ぎんぱく》仲間 叶屋《かのうや》次郎兵衛の店舗が唐津屋と誤伝されたものであろう。叶屋は唐津屋の銀売買のための分身で、豪商がそのような分身を数多く持つ傾向は、文化文政の頃からいっそう顕著になって来ていた。  三代目藤右衛門の発狂をもって、唐津屋は一挙に没落し、今日その店舗の所在をたしかめるすべもないのだが、ここで仮りにその位置を定める必要もなかろう。ただ、店のすぐそばに水路があったというくらいにしておこう。  唐津屋藤右衛門は、その店の奥座敷で、客のうしろの床の間に飾ってある備前焼《びぜんやき》の四耳壺《よんじこ》をみつめていた。その壺《つぼ》を手に入れたのはもう十年も前のことであった。  藤右衛門には、壺や皿の蒐集《しゆうしゆう》に熱をあげていた頃《ころ》のことが、妙になまなましく、それでいて自分のことではないような遠いものに感じられるのだった。  これを汐《しお》に、長男の三五郎に身代を譲ってしまいたい……。  壺をみつめながら、藤右衛門はまたしてもそのことを考えた。藤右衛門は唐津屋を二十四のときに継がされて三代目の主となった。三五郎はいま、その二十四歳になっている。だが、三五郎はどうひいき目に見ても、今の唐津屋をまかせられる器ではないのだ。  たしかに、世間の評判どおり三五郎はよく遊んでいる。父親の存在に安心し切って、店の裏でひなたぼっこをしているような趣きがあり、何よりも藤右衛門の目には、すべてにわたって粘っこい競争心が感じられないのであった。  遊蕩《ゆうとう》はむしろ藤右衛門のほうがすすめたような具合だった。商人としての目を広く持たせようと考えたからである。現に唐津屋は三代目になってから、十数種の異った商いに手をひろげており、それぞれの業種に独立した身替りの店を持っていた。商いが複雑になり、そうしなければ伸びて行けない時勢だったのである。  唐津屋は屋号が示す通り、肥前《ひぜん》唐津の出である。初代は武士で、町野藤右衛門兼親と言い、宝暦《ほうれき》の十二年に起った領主交替の折り土井家の禄《ろく》を離れ、入部そうそうの水野家に対して志を述べ、現地産物を取扱う商人になった。  町野藤右衛門は唐津という土地そのものに執着した人物らしく、転封によって逼迫《ひつぱく》した水野家の財政を、殖産振興や産物の領外流通などによって大いに助け、その為旧領主時代の商人たちを尻目に、随一の唐津商人にのしあがって、九十九歳の長寿を全うした。唐津屋内部で白翁さまと呼ばれているのは、この町野藤右衛門兼親のことである。  白翁の没後、商人に徹するため町野姓を捨てた一族は、唐津屋を名乗りはじめたが、代々の当主を藤右衛門とすることで白翁の遺徳をしのんでいるのだ。  唐津領の産物は、たとえば農作物にしても、桑《くわ》、漆《うるし》、楮《こうぞ》、茶からはじまって、櫨《はぜ》、菜種《なたね》、煙草《たばこ》、茶、木綿《もめん》、麻と相当に多彩であり、海産物も、鯨《くじら》や海草類など、他領での換金を見込めるものが多かった。ことに干鮑《ほしあわび》、煎海鼠《いりこ》などの俵物は大きな財源となり、干鰯《ほしか》も金肥《きんぴ》として大量に領外へ送り出された。  唐津屋はそれら領内特産物の輸送の殆《ほと》んどを独占し、京坂、江戸などに店舗や倉庫を増やし、やがて江戸において出身地の背景なしに通用する豪商としての地位を確立して行ったのである。 「あと五千両……」  藤右衛門の沈黙が長過ぎるので、客は堪《たま》りかねたように言ったが、声が喉《のど》にからんで途中で言葉を切った。  藤右衛門はそれを無視して壺を眺《なが》めている。正直のところ、客の顔を見る気がしないのであった。年は息子の三五郎と同じ筈《はず》であった。 「唐津屋にそのくらいの金子がないわけはなかろう。ほかならぬ唐津屋ゆえ、父の使いで参ったと事穏やかに申しておるが、この儂《わし》とて町奉行与力の職にある。参った以上、むなしくこの家を辞去するわけには行かぬ」  客は色白の顔から血を引かせ、いっそう白くなった顔でこわばった言い方をした。  儂、という言い方を、藤右衛門はうるさく感じた。藤右衛門とて、とうにそうした若者の背のびを寛大な微笑で見ていられる年になってはいるが、何としても相手は南町奉行跡部能登守の内与力である。背のびは自然|権柄《けんぺい》ずくで物事を自分の意の儘《まま》に運ぼうとすることになる。 「まだお若いのに、内与力におなり遊ばすとは、大層なことでございますなあ」  藤右衛門は相変らず壺に目をやった儘、ゆったりとした声でそう言った。  客は藤右衛門の真意をはかりかねて沈黙していた。  南北五十騎の与力は世襲であるが、内与力は、新任の奉行が必要に応じて任命する別枠《べつわく》の存在であった。多くは職務に不慣れな奉行を補佐する為に任命されるが、今度の跡部能登守《あとべのとのかみ》の場合はその必要がなく、内与力はないものと予想されていた。  跡部能登守は駿府町奉行、堺奉行をへて天保七年大坂町奉行の職に就き、次いで勘定奉行に任ぜられ、このたびまた南町奉行に転じた人物なのである。  しかし、世間の予想に反して、いま藤右衛門の前にいる男が内与力となった。それに対する巷《ちまた》の評判は痛烈で、賄賂《まいない》の取り方を見習わせる為だ、とささやかれている。  その新しい内与力の名は、渡辺忠直。父親は曲《まが》右衛門安直と言い、しもじもでは通りから三階へ向かって笑いかけている者を、曲右衛門と称することがある。  上に諂《へつら》い下に厳しい奸吏《かんり》の見本のような存在とされているのだ。跡部能登守に影の如《ごと》くつき従って、行く先ざきで悪名を残しているが、ことに能登守が大坂町奉行時代に遭遇した大塩平八郎の乱では、能登守が大塩勢の砲撃に動転して落馬した時、曲右衛門はそれに輪をかけたうろたえぶりで逃げ去ってしまい、主従ともども物笑いの種にされ、以来武士の間でもよく言う者は稀《まれ》であった。  その曲右衛門と唐津屋藤右衛門は深くかかわってしまっているのだ。なぜなら、老中水野忠邦は、跡部能登守の兄に当たっている。忠邦は妾腹《しようふく》の子であったが、九歳の折り正室の養子となって水野家世子の地位を確保した。能登守はその異母弟に当たっており、旗本跡部氏を継いで今日に至っている。したがって、能登守自体が水野忠邦という巨大な権力者の傘《かさ》の下に在り、渡辺曲右衛門安直はその虎《とら》の威をかりる狐《きつね》であった。  しかし、下に嫌《きら》われる曲右衛門も、上から見おろせば仲々の働き者であった。跡部家では曲右衛門を、文政年間に老中首座を勤めた沼津藩主水野|忠成《ただあきら》の用人だった土方縫殿介《ひじかたぬいのすけ》に譬《たと》える者もあると言う。土方縫殿介は用人として水野忠成の出世に全力を傾け、贈賄の限りを尽して遂に忠成を老中首座にのしあがらせた人物なのである。 「このたびのご入用は、何の為のものでございましょうな」  藤右衛門はそのことを思い出してつぶやくように言った。長年の付合で、曲右衛門も明らかにその土方縫殿介たらんとこころざしていたことを藤右衛門は知っているのだ。しかし、能登守はすでに旗本跡部家としての家格の範囲で、充分すぎるほど活躍し、今は南町奉行となって次に就くべき役職は思いつけないほどなのである。また、水野忠邦も老中職を再任し、今さら金銀をばら撒《ま》く必要もないようなのだった。 「使い道が判らねば出せんと言うのか」  忠直の顔に薄笑いが泛《うか》んだ。その笑いは父親以上に小心で狡猾《こうかつ》な感じだった。 「聞けば出すのだな」  驚くなと言いたげに忠直は下唇を舐《な》めた。 「蠅《はえ》を追うのに使うのだ」 「蠅……」  藤右衛門はやっと壺から目をそらせ、相手の顔をまじまじと見た。忠直は喋《しやべ》るとき、唇を右に歪《ゆが》める癖があるようだった。 「どんな蠅がいるのでございましょう」 「土井|大炊頭《おおいのかみ》および鳥居|甲斐守《かいのかみ》」  藤右衛門は思わず笑顔になった。長年の修練で、決して冷笑や嘲笑に見えることはないが、その時の藤右衛門の笑いは、たしかに失笑であった。 「それはもう決っておりましょうに」  老中土井大炊頭の辞意はすでに伝わっており、また南町奉行鳥居忠耀らに対する幕府側の態度も、とうに唐津屋あたりへは聞えて来ている。  すると忠直は笑顔を消し、急に体を前かがみにすると、いやに熱っぽい口調で喋《しやべ》りはじめた。 「一万両や二万両のはした金で老中や町奉行を追い落とせるわけがなかろう。しかし、金は使いようだ。いいか、唐津屋。きまっておればこそ金を撒くのだ。決して無駄にはならん。お願い申すと金を置かれても、成らぬことならば受取りにくかろうが、すでに成っていることに対してなら、預り置くと答えるだけでよい。事が成った暁、その者が追い落しを頼まれたかと訊《き》かれれば、頼まれたと答えるしかないではないか」 「しかし、既に決まってしまったことに賄賂《わいろ》を用いても無益ではないのでしょうか」 「無益であるものか」  忠直は声を高くし、前傾した姿勢を元に直して言った。 「一見無駄金に見えても、それで次の時流に乗ることができる。儂は主君の為に働いたことになるし、殿は水野家にまたしても力をかしたことになる」 「見せかけの賄賂でございますな」  藤右衛門は勝ち誇ったような目をする忠直からまた目をそらせて言った。 「曲右衛門さまのお考えでございましょうが、それはまた大層なお知恵でございます」  すると忠直の声が急にきつくなった。 「これは儂の考えたことだ」 「ほう……」  藤右衛門の顔が曇る。 「で、曲右衛門さまは何と……」 「まかせる、と言った」 「さようで……」 「ああ、たしかにまかせると言った。あの父の許しなしに儂が勝手に金集めをすると思うか」 「それはごもっともですが……」  藤右衛門はそう言い、溜息《ためいき》をついた。何か張りつめていたものが、急に切れてしまったようだった。 「たしかに、曲右衛門さまのお考えにしては、ちと変っておりますようで……今までに例のないなされ方のような気がいたしておりました」 「そうか」  忠直は満足したように頷いた。 「儂は父のやり方をずっと見ていたが、今までに随分と無駄な金を使っていたようだ。儂は父から学び、更にその上を行くような者になりたいと思っている」  藤右衛門は顔を横に向けて咳《せき》ばらいしたが、かまわぬことならその場に反吐《へど》を吐き散らしてやりたい気分だった。  渡辺曲右衛門安直という、この世のダニのような男を、忠直はそのダニ故《ゆえ》に稼《かせ》ぎためた内福な家の塀《へい》の内で、世の常の父親同様敬い切って育ったに違いなかった。  ダニがまた一匹この世に這《は》い出して来た。藤右衛門はそう思い、自分が忠直を一目見た時から嫌《きら》ったことを褒《ほ》めたいように感じた。 「この唐津屋はダニにとりつかれた」  藤右衛門は先代の言葉を思い出していた。それは藤右衛門がまだ松之助と呼ばれていた頃で、松平越中守が老中職を退いた時だったから、今から三十年ほども前のことになる。 商人たちにとっては、何とも騒然とした時代であった。十組問屋仲間の数が限定され、以後の新規加入をすべて認めないというきまりになってしまったのである。  当時まだ水野家は唐津を領しており、先代藤右衛門はいち早くその事を知らされて、かなり有利に立廻《たちまわ》ったようであった。恐らくそのことは沼津の水野家を通じて得た情報だったのだろうが、唐津屋はその直後から激しく水野家に利用されはじめた。  水野忠邦は当時二十歳。まだ家督を継いだばかりで、幕閣につらなる為に厖大《ぼうだい》な資金を要しており、しかも当てにし得る財源と言えば、唐津屋くらいしかなかったのである。  と言うのも、唐津藩主である限り、水野忠邦は中央の要職には就き得なかったのだ。唐津藩には長崎奉行を補佐して異国船に対する警備に当たるという大役が与えられていて、同時に中央の要職に就くわけには行かないのである。従って、幕閣につらなることを欲すれば、先ず転封の工作からはじめなければならない。  先代が嘆いたのは、その無理な転封工作の資金作りを押しつけられたからである。白翁以来正当な商行為で家業を拡大することに努めて来た唐津屋にとって、水野家が無理な資金作りの代償のようにして、次から次へと送りつけて来る「耳よりな話」のたぐいは、かなりうしろめたい感じのものであったに違いない。  今では藤右衛門にも、「ダニにとりつかれた」と言う先代の嘆息の意味がよく判っている。世の為の商いではなく、おのれの貨殖の為の商いへ、無理やり転落させられてしまうことを嘆いていたのだ。  ひょっとすると先代は、水野家の転封工作が徒労におわることを期待していたのかも知れない。 「一から十まで人の心がそうたやすく銭金《ぜにかね》で動いてはたまらない」  晩年、口癖のようにそう言うようになっていたからである。ところが、その先代が死んで松之助が藤右衛門を名乗った年、水野忠邦はすでに拝命していた御奏番役に寺社奉行を兼ね、見事に遠州浜松への転封に成功してしまったのである。沼津藩主水野忠成が老中に列したすぐあとのことである。  とは言え、唐津屋がそれを祝わぬわけにも行かない。転封工作に尽力したわけだし、そもそも水野家の唐津転封の際、大坂方面での一万両に及ぶ資金調達の仲介に立ったのが白翁なのである。  唐津屋を継いだばかりの藤右衛門にとって、はじめ先代の心の裡《うち》はよく判らず、水野家の浜松転封は、家業拡大の好材料に思えた。藤右衛門と同年の水野忠邦は、はじめから溜《たまり》の間入り、すなわち老中職を目標にしており、その後も機会あるごとに唐津屋を利用した。 「商人は人さまに利用されることで成り立っている。人さまが利用してくれない商人の店先には閑古鳥が鳴くだけだ」  藤右衛門はそう言って、特に水野家に対して抵抗しようとはしなかった。それは、奥州《おうしゆう》 棚倉《たなくら》から唐津入りをして来た小笠原家が、水野家時代に重用された唐津屋に対して、何かしらうとんずる気配があり、唐津屋が唐津ばかりに頼ってはいられないという事情もあったのだが、それ以上に藤右衛門の心にあったのは、水野忠邦をあと押ししたいという気分であった。  武家の賄賂《まいない》もまた今の世のならいならば、野望を遂《と》げる為にはそれもまたやむを得まいと思っていた。同年の水野忠邦と共に伸びて行こうという気負いもあった。だから、順調に出世街道を歩きはじめた忠邦に対し、昇進の都度他心なくそれを祝い、自分も家業に精を出していた。  水野家とのそういう関係を続ける間へ、いつ跡部能登守が割り込んで来たのか、藤右衛門にはそのはじまりがどうもはっきりとは思い出せない。  しかし、忠邦が西の丸老中に列し、一応の目的を遂《と》げた頃、すでに唐津屋には曲右衛門が出入りしていた。  やがて跡部能登守は堺奉行となり、唐津屋にとっても無視できない相手となった。それが更に大坂東町奉行に転ずると、事態は忠邦が大坂城代を勤めていた頃そっくりの様相を呈し、藤右衛門は忠邦にかわってその弟に当たる跡部能登守の立身を扶《たす》ける道具にされた。  しかし、曲右衛門を用人とした能登守のありようは、忠邦に比してずっと不純な感じであった。すでに老中となった忠邦の強い引きたてを受けていながら、忠邦が押し進んで行った姿を、形だけ真似《まね》ているという具合なのである。たしかに能登守も贈賄することを必要としたであろうが、その為の資金作りが、どうやら半分以上自己の貨殖に流れているらしいのだ。忠邦びいきの藤右衛門にとって更に腹立たしいのは、忠邦の進路を扶《たす》けると言う口実を頻繁《ひんぱん》に持ち出すことであった。  賄賂そのものが本来卑しむべき行為なのに、その賄賂をあたかも戦場における矢玉の如く当然のものとして口実に用い、大半を着服してしまう。自己の努力によって得た正当な昇進さえも、賄賂の結果の如くに言ってはばからないのは、おのれ自身を冒涜《ぼうとく》することになろう。  藤右衛門は能登守について、ことごとく舌打ちするようになった。  曲右衛門の汚《きた》なさは論外である。能登守が大坂町奉行の頃、ひそかに大塩平八郎に味方した商人を探し出して捕え、その娘を妾《めかけ》にした上で罪を軽くはからったとか、富商にあらぬ嫌疑《けんぎ》をかけて金品を召しあげたとかいう話を並べはじめたら、それこそひと晩がかりになってしまうだろう。  能登守は大塩挙兵の一因を作ったと言われながらも昇進を続け、天保十二年には勘定奉行に任じられている。  さすがに藤右衛門もこの時はあたりかまわず、 「猫《ねこ》を魚河岸《うおがし》へ追い込んだようなものだ」  と呆《あき》れて見せた。  忠邦によって天保の改革が発令され、祭礼緊縮をはじめとする節約および汚職の禁止が強く叫ばれているにもかかわらず、能登守の用人として曲右衛門の活躍は激しくなるばかりであった。  噂《うわさ》によれば、雑司《ぞうし》ケ谷《や》の感応寺破却に際しても、池上本門寺側と何やら取引があったと言うし、翌年の日光普請御用に際しても、こまごまと稼《かせ》いでいたそうである。  当人はそれを、相かわらず主君昇進の資金作りと称して、逆に忠義を褒められたそうな顔をしており、何かにつけて手本とする土方縫殿介の例を持ち出していた。 「暑そうだな、唐津屋は」  その声にふと我に返ると、忠直はすでに出された酒肴《しゆこう》に手をつけていた。 「長い間ぼんやりと黙り込んでいたぞ」  忠直はからかうように言った。たしかに暑苦しかったが、藤右衛門は自分の額や顔に、外気のせいばかりではない熱を感じていた。 「このところ、少々|風邪《かぜ》気味でございまして」  藤右衛門は首を左右に曲げながら答えた。 「それは困る」  忠直は大げさに言った。 「風邪の熱のせいで、儂《わし》の言ったことがよく耳に入らんと言われたのではかなわんからな」  忠直は若さにそぐわぬ底意地の悪い目で藤右衛門をみつめた。 「町奉行所には、定廻《じようまわ》り、臨時廻りの同心のほかに、隠密廻《おんみつまわ》りというのがある」  忠直は判り切ったことをわざとらしく言った。 「越前守さまは隠密廻りをお使い遊ばすのがお上手なそうで」  藤右衛門はむっとしながら答えた。越後屋、白木屋などの商いの内情が、隠密廻り同心によってことこまかに暴かれたのは、唐津屋たちにとっては有名な事実であった。 「風邪など引いていると、ここへ隠密廻りの手が伸びていても気付けんぞ」  忠直はからかうように言ったが、真意は明らかであった。 「手前どもには、お上のお調べを受けてやましいようなところはございません」  藤右衛門はそう答えたが、怒りと疲れが一度に襲って来たような感じであった。  忠直はもっともらしく頷いた上で、 「儂も家督を継いだからには、殿のお役に立つよう、一層心がけねばならんのさ。先年父は銭相場でかなり賄賂の資金を作り出したそうだが、儂もそういうことを手伝ってくれる相手をしっかりと把《つか》んで置かねばならん」  と薄笑いした。 「なる程。曲右衛門さまより一段とひねこびておいででございますな」  藤右衛門は自分がそう言っている声を、遠いところから聞えて来るように感じていた。「今一度申して見よ」  忠直は盃《さかずき》を叩《たた》きつけるように置いて嚇《おど》しにかかった。 「この唐津屋にうしろめたいことは何一つないと申しあげたのは本当です」  藤右衛門は荒れ勝ちになる呼吸を抑《おさ》えながら言った。 「お咎《とが》めを受けそうなことは、みな曲右衛門さまや越前守さまのお言いつけに従ってしたことです。内与力のあなたさまならば、そういうことを白日のもとにさらすことはたやすいことでございましょうな。しかし、そのようなお手間をかけずとも、曲右衛門さまにお尋ねになってはいかがでございましょう。唐津屋の不正を一番よくご承知なのは、曲右衛門さまでございますよ」 「忘れたな、唐津屋」  忠直は案外しぶとく、藤右衛門が声を荒くした分だけ、冷静になったようだった。 「父はすべて儂にまかせると言ったのだ。このことを含めて、まかせると言ったのだぞ」 「すると、今回からあなたさまがたは、賄賂の資金作りを口実にすることをやめ、手前どもの不正を種に、何の見返りもなく金子《きんす》を持去ろうとおっしゃるのでしょうか」 「見返りがないことはない。儂の言う通りにすれば、唐津屋はいつまでも今まで通り……いや、今まで以上に繁昌できようと言うものだ」 「この世が汚れていることは承知しておりましたが、これはまた見事な程|汚《きた》のうございますな」  その時、廊下から長男の三五郎が慌《あわ》てて声をかけた。 「親父さま。渡辺さまに対して何と言うことをおっしゃいます。お詫びなされ」  忠直は得意そうに盃を持った。 「世間が変ればやり方も変る。三五郎はとうに儂の味方だ。女をくれたぞ」  藤右衛門は愕《おどろ》いて息子の顔を見た。 「女を……」 「好き合うた女を儂にくれた。親父どのもそろそろ代がわりを考えたらどうだ」  三五郎は妙に薄べったい感じの顔で、ニヤニヤとしていた。 「もう……」  藤右衛門は立ちあがろうとし、軽い目まいを感じて坐《すわ》り直した。 「どうともなれだ。三五郎、酒だ酒だ」  胸苦しく、酒など飲めばいっそう苦しくなるのは知れ切っていたが、藤右衛門はやり切れない思いをそう言って振り切ったつもりであった。  が、たしかに体調がおかしく、頭が混乱しているようだった。  暑い夏の日の昼さがり、藤右衛門はその奥座敷で息子をまじえてしたたかに酔い、何か大声で喋り続けていたのは憶《おぼ》えているが、ふと我に返ったときは忠直の刀を手にして廊下に立っていた。  三五郎は忠直の体に取りついて口もきけず、藤右衛門の左の二の腕あたりからも、忠直を突き刺した時はずみで斬《き》った傷口から、血が流れ出していた。  藤右衛門は本当に発狂したのかどうか……。また、忠直が刺殺されたものかどうか、今となってははっきりしない。  しかし、唐津屋の没落が三代目藤右衛門の発狂をきっかけにして始まったことと、曲右衛門の子渡辺忠直が、内与力に就任そうそう死んだことは判っている。死亡の日付は、天保十五年六月二十日である。 [#改ページ]   伊勢屋おりん  江戸の町で数の多いものを、俗に伊勢屋《いせや》稲荷《いなり》に犬の糞《くそ》などと言いますが、本石町《ほんごくちよう》の伊勢屋と言えばこれはもう誰知らぬ者のない木綿《もめん》問屋で、常盤橋御門《ときわばしごもん》のすぐ近くに大きな店を張ってその繁昌ぶりも久しく、代々与兵衛と名乗る当主はもう五代目だそうです。先々代のとき、江戸三年寄の一人|樽屋藤左衛門《たるやとうざえもん》の次男に娘を嫁《とつ》がせて縁を結び、それ以前にも何やら喜多村《きたむら》家と縁が続いていたそうですから、町人としては家柄も立派なもので家内もよく治まり、人によっては江戸の商家の鑑《かがみ》のように言う者もありました。  ところで、その五代目の末娘ですが、名をおりんと言い、随分と大人びる年頃まで、ろくに人目にも触れさせたことがない程大切に育てられていました。乳母日傘《おんばひがさ》と言うことがありますが、伊勢屋のおりんはまさしくその乳母日傘に絹物《おかいこ》ぐるみで育てられたのです。伊勢屋は向島《むこうじま》の延命寺のすぐそばに立派な寮を持っていて、おりんはずっとそこで暮らしていましたが、やがて五代目与兵衛が根岸のほうに新しい寮を作ると、そちらへ移りました。向島あたりに寮を持つことがすたれて、根岸辺がはやりはじめたからですが、ちょうどその頃から、ちらりほらりとおりんのことが世間の噂《うわさ》にのぼるようになりました。 「伊勢屋に美しい娘がいる」 「あれは今に江戸一番の美人になるのではないか」  そういう噂は閑人《ひまじん》たちの間ですぐに尾鰭《おひれ》がついてひろまるものですが、おりんの場合にはことにそれが激しいようでした。 「生きた弁天さまだ」  とか、 「天女のようだ」  とかはまだいいとして、 「ひと目見たとたん、しばらくは息もつけないほどだった」  と言う者が多いのはたしかに尋常なことではなく、噂を聞いた人々はみな好奇心をつのらせました。  実は伊勢屋では、はじめからおりんのただごとではない美しさを承知して、人目にも触れさせぬほど大切な育てかたをしていたのです。おりんのことが世間の評判になるにつれて伊勢屋の家の中から、おりんの祖父に当たる先代の与兵衛が、 「この娘の美しさは伊勢屋の身代に余る」  と嘆いたという話が洩れて来ました。何しろ江戸で五本の指に入ろうという大店《おおだな》のことですから、いったいそのような美しさとは、金にかえれば何万両に当るのだろうかと、人々の興味をいっそう掻《か》きたてるのでした。  総領の松之助をはじめとする三人の兄や二人の姉たちも、話がおりんのことになると、「あの子は特別ですから」  と、敬うような口ぶりになるのですが、その兄や姉たちすら人並みすぐれた器量よしなのですから、用事の往きかえりにわざわざ遠まわりをして伊勢屋の寮のあたりをうろつき、ひと目おりんを見ようなどという者が増《ふ》えるのも当然のなりゆきでした。  ところで、おりんがずっと向島や根岸の寮で暮らしていたのは、母親がおりんを生んだとき体をこわし、それ以来寝たり起きたりの状態だったからです。そうして母親のそばに置かれているうちに、だんだんと家の者もおりんの類《たぐ》いまれな美しさに気付き、家中総がかりで大切に育てあげたのでしょう。だから小大名のお姫さまなどは及びもつかないくらい贅沢《ぜいたく》な暮らしだったに違いありません。  やがてそのおりんが、身のまわりの小品《こじな》などを、親にあてがわれた物ではなく、自分の好みで見立てるようになると、伊助という名の実直な中年の小間物屋が根岸の寮に出入りを許されるようになりました。伊助の店は小伝馬《こでんま》町二丁目にあり、屋号を花屋と言って担《かつ》ぎ商いの男を十四、五人も使うれっきとした店の主《あるじ》でしたが、何せ相手は本石町の伊勢屋ですし、その伊勢屋が家ぐるみで気をつかっているおりんのことですから、粗相があってはいけないというので、主じきじきに根岸へ通うようになったのです。  小間物商いというのは、もちろん客の好みをひと目で見抜く勘を持っていなければなりませんが、それ以上に自分自身の好みがよく、だんだんに客の好みを垢抜《あかぬ》けさせるという役も果たすものなのです。ところがさすがにおりんは自分が美しいだけに、美しいものを見抜く目が天性備わっているらしく、品さだめのひとつひとつが、目きき同士の真剣勝負のような具合で、その道ひと筋に打ちこんで来た伊助にとって、おりんは次に会う日を待ちかねるほどの相手になってしまいました。  と、ここで、いささか滑稽《こつけい》ながら厄介《やつかい》な事件が起こったのです。  伊助は担《かつ》ぎ商いから叩《たた》きあげた男だけに所帯を持つのが人より遅れ、おまけに最初の女房に死なれて、のち添えをもらったばかりでした。後妻は出戻りで年は二十四か五。はじめのうちは判りませんでしたが、これが実は大変なやきもち焼きで、おりんと亭主《ていしゆ》の仲を悋気《りんき》したのです。もっとも、伊助も根岸へ通いはじめてからおりんにうつつを抜かしたようになり、家へ戻っても何かというとおりんのことを話さずには気がすまぬ様子でしたが、おりんは十五、伊助は三十七で、親子ほども年の差がありますし、伊勢屋が選んで出入りを許しただけに伊助はお世辞にも美《い》い男とは言えません。  悋気した後妻が何日も口をきかないのを、伊助ははじめのうち笑っていましたが、あまりしつこいのでだんだんに笑ってもいられなくなり、二、三度口論しているうちに、夫婦は本当に不仲になってしまいました。 「伊勢屋のおりんさんのことで伊助夫婦が揉《も》めている」  ことが評判のおりんのことですし、伊助が根岸の寮へ出入りを許された数少い男の一人でもあったので、そういう噂が一度にひろがりました。伊勢屋与兵衛も少し心を痛めましたが、伊助のことは信用していましたので、世間の口に戸は立てられぬと言った調子で、黙って見ておりました。しかし伊助のほうは商売の信用にもかかわることですから、世間の噂になったことを知ると根岸へ通うのもしばらく控えておりました。  おりんのほうではそんなことは知る由もありませんから、本石町との間を往復する使いの者を伊助のところへ寄らせて、病気ではないかと様子を見させたり、よい品はないかと催促したりするのです。伊助ももとより、男女のことは別として、美しいおりんを愛《いと》しく感じておりますから、こっそりと使いの者におりんが欲しがりそうな品を持たせてやったりしました。ところが花屋は長い間男所帯が続いていたので、しゃきしゃきとした使いのできる下女などはおらず、さりとて小間物屋というのはみな優《や》さ男ばかりですので、新助という小僧をその使いに用いたのです。  新助は十五。おりんと同い年です。伊助はまだ子供だからと安心していたのですが、おりんにして見れば、生まれてはじめて身近に現われた自分と同年の男なのです。それに新助は小ざっぱりとした感じでしたから、おりんは何かほのぼのとしたものを抱いたのかも知れません。そうなるとおりんは大名のお姫さまなみに大らかに育てられた娘ですから、人がどう思おうとそんなことは眼中になく、新助が来るとなかなか帰したがりません。と言っても、どうせ寮の内のことですし、局囲の者もほほえましく思ったのか大目に見ていたらしいのです。  向島とはまたひと味かわった風流な庭を、おりんが新助と肩を並べてそぞろ歩きしているのを見たという者もおりましたが、さすがにその者も今度は年が近いだけに、伊勢屋の為を思ってか口をつぐんでいたようです。  その新助が根岸へ行ったまま帰らず、翌朝下谷の道なし横丁で死んでいるのが見つかったのは、おりんが十六になった年の二月のおわりでした。腹と胸に深い刺傷《さしきず》をうけて、降り積った雪を真っ赤に染めて倒れていたと言います。  殺したのは魚辰の若い衆で、伝吉という男でした。魚辰は根岸から谷中辺では一番大きな魚屋で、伊勢屋の寮へも出入りしていました。もっとも、魚屋ですから勝手への出入りで、下女たちや乳母とは顔馴染《かおなじみ》でも、おりんと会うようなことはありません。お上の取調べに対して、伝吉は新助殺しをあっさりと白状しましたが、以前から仲が悪かったところへ、その日はささいなことから悪口の言い合いになり、ついカッとして商売道具の出刃庖丁《でばぼうちよう》で刺し殺してしまったと言うだけでした。  結局、若い者同士の喧嘩《けんか》の度が過ぎ、はずみで殺してしまった事件としてそれは納まりましたけれど、実際にはおりんが原因だったのです。  伝吉も伊勢屋の寮へ出入りするうち、おりんの姿を垣間《かいま》見てその美しさのとりこになっていたのです。でも、それは遠くから憧《あこが》れるだけといったものだったはずです。ところがそこへ自分より三つも年下の新助が現われて、身の程もわきまえずおりんの気をひいている。……伝吉にすればそう思えたことでしょう。美しいおりんの為を思う、と自分ではそう感じていたかも知れませんが、伝吉の心の底にあったのは嫉妬《しつと》の炎にほかなりません。手を引け、引かぬ、と男一人前のような言い合いからとうとう刃物をとり出してこの始末ですが、伝吉がそれでもおりんに憧れ切っていたことが伊勢屋の為になり、おりんを中にしての人殺しだということは世間に知られずにおわりました。しかし、どうやら伊勢屋では内々そのことを知っていたようで、それ以来魚辰も花屋も出入りをさしとめられてしまいました。  五代目伊勢屋与兵衛は若い頃から絵を描くことが好きで、身代を継いだあとも閑《ひま》があるとよく絵筆をとっていたようです。師匠に当たる人は美人画で知られた浮世絵師の皆川秋芳でした。秋芳は六十に近い男で、絵師や戯作者などというのはことさら老成したふりをしたがるものですから、どうかすると六十をとうに過ぎたようにも見えるのです。  与兵衛はその秋芳に、おりんの姿を写させようと思いたちました。何しろ先代が、わが身代に余ると評したほどの美しさですから、父親としてそう思いたったのも無理からぬことでしょう。  この皆川秋芳、若い頃から散々浮名をたて続けた道楽者ですが、何といってももう老人でその上自分の師匠に当たる人ですから、与兵衛もおりんのそばへ近づけて心配のある男とは思ってもいないようでした。  あとになって見ますと、どうやら与兵衛の絵はやはり素人芸で、本物の絵師がどういうものか、よく判っていなかったようです。  秋芳は世間に名を知られた本職の絵師だけに、おりんに会ったとたん、骨の髄までその美しさに酔ってしまったようです。 「今の江戸でこの娘を描かなければ絵師とは言えない。描かせてもらえる俺《おれ》は冥利《みようり》に尽きる」  と言って、画布やら筆やら道具一式を根岸へ運ばせると、ほかの仕事をすべて断わってその日から伊勢屋の寮に泊り込んでしまうほどの気の入れようでした。  来る日も来る日も描きかかれしたわけですが、十六の春もすぎて娘ざかりにさしかかった美しいおりんは、しとやかでさりげない立居振舞いの中にも、女道楽の限りを尽した浮世絵師の官能を激しくゆさぶるものを示したのでしょう。  いつしか秋芳も年の差を忘れ、一人の男としておりんを想うようになったのです。とは言え、いくら奇行を看過される立場の絵師でも、そう長く寮に泊り込んでいるわけには行きません。二十日もすぎるといったん秋芳は自宅へ引きさがることになり、八丁堀の借家へ戻りました。  そこでまた一人、おりんを慕う男が現われるのですが、これは何と秋芳の描いた絵姿だけで恋に陥ってしまったのです。その男の名は皆川明芳。秋芳の門弟でした。明芳は秋芳門下の逸材と言われた若手ですが、師の描いた絵姿だけではあきたらず、何としてもじかにおりんに会いたがりました。しかし秋芳は明芳の年が若いことを理由に、頑《がん》として許しませんでした。その間の微妙なあやは当人同士にしか判るわけはありませんが、秋芳にして見れば、若い明芳の露骨な恋心が苦々しく思えたに違いありません。また明芳は明芳で、恋する男の敏感さから、おりんに対する師の年甲斐《としがい》もない野心を見抜いていたのでしょう。ですから、おりんに会わせろ、会わさぬという二人の諍《いさか》いは、一応秋芳の伊勢屋に対する分別という形をとりながらも、その実はおりんを独占する一人の男と、それに対するもう一人の男の攻撃だったのです。  秋芳は弟子とのそんないざこざの間にも、足繁《あししげ》く根岸へ通っていました。また、悶々《もんもん》とした明芳が寮のあたりをこそこそと歩きまわったことも二度や三度ではありますまい。おりんは秋芳の男としての下心に気づく風もなく、面白い絵描きのおじいさんというような具合で、打ちとけて行ったようです。  秋芳と明芳の間にあからさまな争いが起ったのは、秋芳がおりんのいささかしどけない姿を写しとって来た日でした。しどけないと言っても茶屋女を写したようなみだらなものではありませんでしたが、とにかくおりんは長襦袢《ながじゆばん》姿で秋芳に描かれたのです。すっかり打ちとけた秋芳から、冗談半分のように口説かれて、ついそんな姿も描き留めてもらう気になったのでしょう。  でも明芳はそれを見て激しく怒りました。伊勢屋の箱入り娘だから、若い男はそばへも寄せつけられないのだと言って明芳の同行を拒否しながら、自分はそんな姿までおりんに強要しているのです。 「伊勢屋への遠慮がどこにある。若い娘への思いやりがどこにあるのだ」  明芳にそう言って責められると、秋芳もさすがに返答に窮しました。そして、苦しまぎれに明芳のこれまでの女出入りや、貸し与えた金の返済のことなどを持ち出し、とうとう秋芳は明芳に破門を言い渡してしまったのです。  秋芳も一番弟子を破門にして寝ざめが悪かったのでしょうが、明芳は破門されたその足を、腹立ちまぎれに版元の吉野屋へ向けていました。吉野屋と言えば、秋芳が世話になっている版元とは商売がたきの間柄で、つねづね秋芳よりは弟子の明芳のほうが、画格も技《わざ》も一枚上だと明言してはばからなかったのです。  狭い絵師の世界ですから、明芳が吉野屋側へはしったということは、すぐに秋芳の耳に届きました。 「今までは師匠に頭を押えられていたが、これで明芳も思う存分腕がふるえる。これから先が楽しみだ」  などという巷《ちまた》の声も聞えて来ます。たしかに明芳の才能はそれだけのことがあることを、一番よく知っているのはほかならぬ秋芳自身です。技も技だが何よりも人気が物を言う浮世絵師のことだけに、秋芳の心には焦《あせ》りが生じます。  恐らく、秋芳は明芳に対抗するだけの力の源をおりんに求めたのでしょう。絵師とはおのれの身を焦がすことで、いっそう優れた画技をふるうことができるものなのでしょう。その点は素人絵描きの与兵衛などに思いも寄らぬことのはずでした。  秋芳はおりんに言い寄りはじめました。その言い寄り方はさすがに巧者で、絵師の美しいものに対する心のありようを説きながら、いかにおりんが美しくて自分の老いた心を若返らせているかに行きつくのです。面白いおじいさん、から一転して美辞麗句をつらね、褒《ほ》めちぎりかき口説く秋芳を、おりんがいったいどのように感じていたかは、明らかでありません。しかし、秋芳の絵に現われるおりんは、一枚ごとに女らしい艶《つや》やかさを増し、あるときは本当にしどけない姿態さえ示していたのです。  それも、絵師があるがままの姿ばかりを描くものではないということを考えれば、おのずと納得の行くことではあります。おりんは決してそのような姿態を秋芳に示したりはしなかったでしょう。それは秋芳が想像で描いたものなのです。だからこそ、秋芳は伊勢屋の手前もあり、それを版木《はんぎ》にかけることをしなかったのです。しかし、長年秋芳の面倒を見て来た版元にすれば、当てにしていた明芳という逸材を吉野屋に取られるわ、秋芳は根岸通いでいっこうに作品を発表させぬわで、黙っているわけには行かなくなりました。  で、八丁堀の秋芳の家へ乗り込んで見ると、今までの中でも最高の出来ばえと思われるおりんの絵姿が、ずらりと並んでいるではありませんか。 「ほかの仕事がだめならばこれを売らせてもらいましょう」  版元はそう言って、嫌《いや》がる秋芳から借金のかたを取るようにおりんの絵を半分ほど持帰ってしまったのです。当然その絵は江戸の富豪たちの目に入ることになります。絵の見事さもさることながら、みな一様におりんの美しさに息をのみました。  問屋仲間の暮れの寄合いが近づくと、伊勢屋与兵衛は仲間たちからおりんを一目見せてくれるよう、強く頼まれました。  もうおりんも明ければ十七です。いつまでも箱入り娘で寮の奥にとじこめておくわけにも行かぬことですし、それに与兵衛もやはり親馬鹿の一人でした。 「それでは来春の寄合いは、娘くらべという趣向でいたしましょう」  自分からそんなことを発案して、とうとうおりんを世間の目にさらすことになりました。そこは江戸でも指折りの分限者ですから、衣裳《いしよう》、化粧に髪かざり、どこをとっても寸分の隙《すき》もなく飾りたてて寄合いの席へ送り込みました。その席に、皆川明芳改メ大川明芳が紛れ込んでいたことは言うまでもありません。  おりんが現われたとき、その大一座がしばらくは水を打ったように静まり返っていたということです。その時以来、伊勢屋おりんの評判は江戸中にひろまりました。そうなると、備えの手薄な根岸の寮では心もとなく、おりんは十七の春から本石町の伊勢屋の奥に兄や姉たちと暮らすようになり、やれ花見だ、やれご縁日だと、世間なみの娘のように出歩けるようになりました。深窓で磨《みが》き続けられていた美人が、町なかで人々の暮らしに触れると、いっそう艶やかさを増して、その美しさと言ったら、吠えつく犬もおとなしくなるという程のものでした。  ここに面白いのは、遂に本物のおりんを見ることのできた明芳の反応でした。 「これはだめだ」  娘くらべの寄合いの席でおりんをひと目見るなりそうつぶやいたそうです。自分の望みが大それていたと感じたのでしょう。 「師匠はえらい」  あとでそうも言ったそうです。 「あの美しさをじかに見ながら、よくも絵に描く気が起きたものだ。自分はとうてい描く気にはなれない」  それは一本立ちしてやって行けるめどもついたゆとりと言えば言えるでしょうが、本音であったこともたしかです。おりんを描き続けた秋芳と、一目で描くことを放棄してしまった明芳の間には、同じ絵描きでもそれだけ感受性に差があったのでしょう。  それはとにかく、町場《まちば》に置かれたおりんは否《いや》が応《おう》でも人目に立ちますが、与兵衛はそれも先刻承知の上らしく、根岸から本石町へ移されたのは、要するに嫁入りを前提にしていたようです。と言っても、当初はまだそんな話もなかったのですが、そこはそれ与兵衛とて根っからの商人で、おりんの婿選びをいっそう有利にし、嫁《とつ》いだ上も箔《はく》をつけておいてやろうという気持ですから、江戸一番の美女という評判が高まるのを、嫌《いや》がるわけもありません。 「次におりんさんが外へお出になる日を、こっそりわたしに教えておくれ」  などと物好きな男たちに頼まれて、店の丁稚《でつち》が小遣《こづか》い稼《かせ》ぎをはじめるような具合でしたが、それも伊勢屋にとってはめでたいことだったのです。  ところが、おりんが本石町へ移るとすぐ、皆川秋芳が病いの床についてしまいました。六十近い男ですから、おりんに会えなくなって恋患い、などということは考えられませんが、やはり気の張りを失った為でしょうか。病名もはっきりしないまま、日増しに衰えて行くようでした。その夏も過ぎると、秋風とともに秋芳没落の噂が立ちはじめます。絵を描かぬ絵師は弱いもので、どうやら版元に見はなされたようでした。それに引きかえ、破門された明芳は師の分まで羽ぶりがよくなり、次々に作品を発表して人気者になって行きました。  そうこうするうちに、伊勢屋へぼつぼつとおりんの縁談が舞い込むようになりましたが、思ったよりその数が少ないのは、伊勢屋の格式とおりんの美女ぶりに、はじめからあきらめてしまう者が多かったせいでしょう。  あきらめた者はかえってさいわいでした。一度おりんと自分をつなげて考えて見た人間は、未練というか執着というか、とにかくそのことにこだわってしまって、鬱々《うつうつ》と楽しめない日を送ることになったようです。天下の伊勢屋に天下の美女。そういう立場になると迂闊《うかつ》な態度はとれない道理で、まして一度に二人の男をよろこばす返事などできるわけがありません。縁談を持ち込んだ者はみな余程の自信があっての上だったでしょうから、まとまらなかったとなると、当の本人や親たちはおろか、仲に入った人々までが大層体裁の悪い思いをしなければならず、内々伊勢屋をよく思わないようになったのです。  美しすぎることは、他人を不幸にしてしまうのでしょうか。伊勢屋の内部にもひそかな動揺が起っていました。まず、与兵衛が目をかけていた若い番頭が一人、寝込んでしまいました。これはもう明らかに恋患いで、根がお店《たな》大事の忠義者ですから、おりんへのやみ難い慕情と板ばさみになって悩み抜いた揚句《あげく》、或る日大川へ身を投げてしまいました。さいわい通りかかった舟に救いあげられて一命はとりとめましたが、もう一生お店へ戻る気はないと言い張り、生まれ故郷へ戻って行ってしまいました。おりんの寝所を覗《のぞ》いているのをみつかって暇を出された手代もいますし、おりんのお供役の順番のことから丁稚が入り乱れて大喧嘩をはじめるという事も起りました。おかしいのは板新道の長屋から通って来る女髪結のおまつという女で、女のくせにおりんに惚《ほ》れてしまい、髪を結いながらおりんに何やらいやらしいことをしかけて出入りを差しとめられ、それ以来毎日昼間から大酒をくらっているということでした。  そうこうするうちに、とうとうおりんの縁談がまとまりました。与兵衛もおりんのことで起る揉めごとが多すぎるのに辟易《へきえき》しはじめていたようです。以前から付合いのあった廻船問屋唐津屋藤右衛門の長男秀太郎との縁組みを一気に進めはじめたのです。 「そう言えば唐津屋あたりに落着くのが順当と言うものだな」  世間はみなそう言って納得しましたが、このときとんでもない邪魔が入りました。病いの床についてたちまち生活に窮した皆川秋芳が、質屋へ一枚二枚と入質した例のおりんの絵がいつの間にか流れてしまって、それがあろうことか唐津屋藤右衛門の目に触れてしまったのです。その絵はいつか版元が半分取りあげて行った残りでした。秋芳が手もとに残した分は、みな想像で描いた絵で、ですからあぶな絵同然のしどけない姿のものばかりなのです。 「今度のお話はなかったことにしていただきたい」  唐津屋から突然そう言い出され、今度は与兵衛の心が大層傷ついたようです。礼を尽して相手に破談の理由を尋ねるがいっこうに判らない。それではと人を使って調べさせると、秋芳の絵の一件が出て来ましたが、そういう絵があっては言いわけも何もしようがない。法外な金を払ってその絵を買い取り、焼きすてるのが精一杯でした。  このことが世間に知れたとき、また人が一人殺されました。皆川秋芳がもとの弟子の明芳に自宅で斬《き》りつけられ、その傷がもとで十日後に死んでしまったのです。今度も事件は師弟間のいざこざということで片付けられましたが、お上がそうはからった裏には、世間をはばかる伊勢屋の財力が物を言っていたようです。  明芳はおりんの縁談がこわれたことに腹を立てて秋芳を斬ったのでしょうか。それにしても短慮なことをしたものですが、美を重んじる絵師には、それなりの正義感があったのかも知れません。 「これで思いを遂げたも同じことです」  すぐに自首して出た明芳は悪びれた様子もなくそう言ったそうだけれど、その本当の意味が判る人間はその場には居合せなかったに違いありません。  伊勢屋は大慌《おおあわ》てに慌て、今度は以前一度断わった縁談を蒸し返しはじめたようですが、突然|堀大和守《ほりやまとのかみ》さまと内藤隼人正《ないとうはやとのしよう》さまから、ほとんど同時に内々で思し召しが伝えられました。お側に侍《はべ》らせたい、という仰せなのです。もちろんそうしたことは珍しいことではありませんでしたが、何せ伊勢屋は町人とは言え格のある家ですから、お武家がたもそう強くは申せません。伊勢屋にしましても、いかにご大身とは言え、娘を軽々しくお側に差し出すのはためらわれます。ましてご両家ともおあとはちゃんとお生まれになっているわけで、これが次の殿さまを生める立場ならばとにかく、多少どころか大いに利のない取引と言うべきだったでしょう。  堀大和守さまは今をときめく若年寄。一方の内藤隼人正さまは御勘定奉行。同じく雲の上のお方ながら、ご身分は堀大和守さまがずっと上です。伊勢屋の返事がいつまでたっても煮え切らないので、ご両家ともご家中が焦《じ》れはじめた折りも折り、堀さまがたの若いお侍が若年寄と張り合うとは身の程も知らぬ好色……とか何とか、内藤さまの悪口を言ったからたまりません。たちまち両家から血気のお侍《さむらい》が出て斬り合いになり、またしてもおりんのことで二人ほど、前途のある人間が死ぬ羽目になってしまったのです。  この頃になりますと、さすがに世間も気がついて、伊勢屋おりんには死神がついている、などとよくない噂をする者も少なくありません。与兵衛これにはほとほと困り果てたようですが、評判はどうでもひと目見れば二度と忘れることができないほどの美人ですから、縁談こそ二転三転しましたが、結局|生糸《きいと》商の信濃屋《しなのや》六左衛門のお内儀になることで結着がつきました。六左衛門は伊勢屋などから見ると出来星《できぼし》の商人ですが、若いながらなかなか才覚のある男で、与兵衛も六左衛門の商人としての逞《たくま》しさを見込んだもののようです。  さすがにおりんも信濃屋に納まってからは、美人ぶりをうたわれこそすれ、妙な刃傷沙汰《にんじようざた》に巻き込まれず、穏やかに暮らしておりましたが、二人の男の子を作って妻の座もすっかり落着いた六年目、またもや信濃屋の若い番頭が首を吊《つ》って死ぬという事件を起し、引き続いて歌舞伎役者の駒形屋市之丞が、信濃屋の手代忠助に刺殺されてしまいました。  夫の六左衛門が八方手を尽して必死に事件の揉み消しに走りまわり、これに伊勢屋も手をかしたらしいので、くわしいことは何ひとつ判りませんでしたが、どうやら例によっておりんはただ何気なく振舞っただけで、周囲の者が子を生んでいっそう色香の増したおりんの魅力に振りまわされ、勝手に争い、勝手に死んで行ったもののようです。  おりんも年を加えるに従って、のびやかに育った性分を理解してくれる者が増え、世間もおりんにまつわる数々の悲しい出来事が、決しておりんから仕かけたことではないのだという風に判って行ったようです。  美しすぎ、素直すぎた為の悲劇、という評判が世間に定まってからは、多少の事件も世間のほうで黙殺してくれ、同情の目をおりんに向けていたようです。  でも、四十を過ぎたときおりんが或る者にこんなことを言ったと言います。 「みんなは悲しいさだめの女のように言いますが、これで私は娘の頃から結構世の中を楽しんでいたのですよ。何しろ私がちょっと笑顔を向けると、すぐ男たちが生きる死ぬの騒ぎを起こすのですからね。女と生まれて、こんなに楽しくしあわせなことがありましょうか」  おりんのあの類いまれな美しさのかげに、女の魔性がひそんでいたなどとは、決して思いたくないのですが……。 [#改ページ]   おなじみの夢  この晩秋、案の定|風邪《かぜ》を引いた。  昼の陽射《ひざ》しは季節|外《はず》れと言ってよい強さで、殊《こと》にガラスの仕切りの内側にいると、汗ばむほどであった。電車やタクシーに乗っていると、ちょうど春先きのように居眠りをしてしまいそうな具合なのだ。  それが一歩外へ出ると、やはり風は晩秋のものでひんやりとする。汗ばんだ肌《はだ》が急に冷やされて、ぞくりとしてしまう。  風邪を引いてしまいそうだ。  そう思ったのは、富山から小松へ向かう列車の中のことであった。私はセーターを脱ぎ、網棚《あみだな》へ抛《ほう》りあげた。小松でおりるときはそのセーターを着て、もう一枚カーディガンを引っかけるつもりであった。講演旅行なので、スーツはクロース・バッグに入れて持ち歩いていた。同行の山口瞳さんに言わせると、「出《で》の衣裳《いしよう》」ということになる。登壇するときちょっと着て、講演がおわるとすぐにバッグへしまい込んでしまうのだ。そうでないと、何日目かにはシワシワのみじめな恰好《かつこう》で聴衆の前へ出なければならなくなる。  小松駅へ着くと、地元の幹事役の人が出迎えに来ていて、すぐ車に乗せられた。行先は片山津《かたやまづ》温泉である。  と、またガラスごしの陽光でポカポカとあたたまって来る。  風邪を引くぞ。  私は警戒心をつのらせたが、着けばすぐホテルへ入るのだと思い、少し汗ばみながらそのまま車に揺られていた。  ホテル側にしても困る季節だろう。冷房と暖房の端境期《はざかいき》といった感じで、とにかく昼と夜の気温差が大きすぎるのだ。  ところが、ホテルへ着いたら中がひんやりとして、おまけに薄暗いのだ。こんなことは何年に一度ということらしいが、工事で停電してしまっていた。勿論《もちろん》エレベーターも動かないし、煙草《たばこ》の自動販売機もとまっている。私たちはロビーで一時間ほど待つ羽目になった。  風邪を引いたとしたら、その時ではなかっただろうか。  小松での講演をおえて、翌日は加賀温泉駅からまた北陸線に乗り、宮津へ向かった。出発が越中 滑川《なめりかわ》だから、越中、加賀、越前と通って若狭から丹後国へ向かっていることになる。  この車中がまた馬鹿陽気であった。おまけに山口さんは最初から風邪を引いている。国立《くにたち》A型という奴《やつ》だ。  風邪を引くぞ。  私は山口さんたちと、とりとめのないお喋《しやべ》りをしながらも警戒し続けた。旅先で熱など出してはたまらない。またあの夢を見なくてはならないし、知らない土地であれを見たらどういうことになるか、ちょっと自信がないのである。  そぶりで気付いたのだろうか。山口さんは急に網棚から鞄《かばん》をおろして、私に風邪薬を二包みほどくれた。改源という古い薬だ。有難く頂戴したが、何せ車中のこととて、罐《かん》ジュースで飲む気にもならず、宿へ着いてからと、ポケットへしまっておいた。  宮津の宿は天の橋立のとっ先きにあり、公園の中に建っている純和風旅館であった。講演は無事にすんだが、ここでとうとう熱が出てしまった。国立A型に感染したのではなく、やはり汗ばんだり冷たい風に当たったりしたせいに違いなかった。  それに、一番いけなかったのは、宿へ着いたそうそう、天の橋立を物珍しげに見物に出かけたことだろう。  何しろ宿は天の橋立そのものの中にある。宿を出て少し引きかえし、回転橋を渡るとすぐ目につくのが茶店の表に立てかけた貨自転車の看板なのだ。一も二もなくそこで自転車を借り、海中に突き出した細長い松林の道を、自転車で走り抜け、傘松《かさまつ》のところまで行って引き返して来た。  何条もってたまるべき、である。その晩、あの夢を見てしまった。  誰でもそんなおなじみの夢を持っているものなのだろうか。とにかく私にはそれがある。  発熱したとき、いつもおなじ夢を見るのだ。いつ頃からその夢を見ているのかはっきりしないが、かなり幼い頃からのことであることはたしかだ。  厚みのまったく感じられない円盤がうようよ出て来る。円盤と言っても例のUFOとは違う。レコード盤のような奴だ。そいつらが、急に目の前に近付いたり、すうっと遠のいたりする。ひとつひとつは回転していて、時にはいろとりどりだったりする。カラーかモノクロかの差が、見る時によって異なるだけで、その夢のはじまりはいつも無数の円盤がうごめいている。  或る時その話を友人の一人にしたら、実にうまい解釈をしてくれた。 「それは天井《てんじよう》の節穴だよ」  その友人はいとも簡単に言うのだ。 「なるほどそうか」  私は感心した。そう言えばたしかにそのようなのだ。幼い頃発熱して寝たとき、私は天井板にある節の模様をそんな風に見たのかも知れない。私の家の天井には、たくさんの節目が散らばっていたのだ。  目まいでもしていたのだろう。随分長い時間、そんな状態で天井をぼんやりと見つめていたのかも知れない。そういう幼時の体験が記憶に焼き付いて、四十なかばに至った今日でも、発熱すれば必ずよみがえって来るのかも知れない。  円盤の襲撃の途中から音声が入る。 「タロちゃん、タロちゃん……」  死んだ叔母《おば》の声である。女のくせに低くてよく響く声をした叔母であった。高熱を発してうつろな目で仰臥《ぎようが》している私に呼びかけた時の記憶だろうか。  姿は出て来ない。その夢の導入部は、かなり無機的な世界なのである。  宮津の宿でもそれが聞こえた。 「タロちゃん、タロちゃん……」  幼い頃、私はみんなにそう呼ばれていたが、今では私をそんな風に呼んだ人々はみな年をとってしまい、たいていは死んで、もうタロちゃんと呼んでくれる人は二人しか残っていない。  そのうちに、視界の右端のほうから、円盤のひとつが物凄《ものすご》い高速で、しかもゆっくりと近付いて来る。  変な表現だが、まさにその通りなのだから仕方がない。  物凄いスピードであることははっきりしているのだが、見た目にはごくゆっくりと近付いて来るのだ。したがって、その円盤はとほうもなく遠いところからやって来るということが判る。  その円盤が近付きはじめると、とっくにその夢に慣れてしまった私は、ああイントロがおわるな、という風に感じるのである。  最後の円盤は、私に際限もなく近付き続け、視界一杯にひろがって私を包み込んでしまう。  見知らぬ土地でその夢を見たくないというのは、そこから先が問題だからである。  最後の円盤に包み込まれた途端、夢はガラリと変わってしまう。まず気分が一変するのだ。  それまでは、発熱しているという自覚がある。その夢を見たこと自体が発熱の証拠なのだから、寝る前に熱が出ていなくても、その夢を見れば自分が熱を出しているということが判る。とにかくもうすっかりおなじみの夢なのだ。  ところが、円盤に包み込まれると、夢の中の夢というか、それが夢であることをまったく意識しなくなってしまう。したがって発熱の重苦しい気分がなくなり、あとは夢の状態に引きずりまわされて、浮きうきしたり悲しんだり、もうどうしようもなくなる。  しかも、そこから先は千変万化、同じ夢ではなくなってしまう。  私は宮津のその宿で寝床から起きあがり、着ていた浴衣《ゆかた》を脱ぐと、壁にかけた「出の衣裳」である黒いスーツを着てネクタイをしめた。  襖《ふすま》をあけて廊下へ出る。山口瞳さんの部屋も江藤淳さんの部屋も、寝静まって物音ひとつしない。私は深夜の静けさを掻き乱さぬよう、足音を忍ばせて長い廊下を玄関のほうへ向かった。 「おでかけですか」  玄関の脇《わき》の部屋の戸があいていて、初老の女中さんが私に向かってにこやかに言った。 「ええ」  沓脱《くつぬ》ぎの石の上には、もう私の靴《くつ》がちゃんと揃《そろ》えてあって、それに足をいれていると、外のくらがりの中でシャリシャリと車のタイヤが砂利を踏む音がした。  白いカバーをかけた帽子をかぶった青年が現われ、 「どうぞ」  と慇懃《いんぎん》に言う。  私は玄関を出た。青年はハイヤーの運転手で、外車のドアをあけて私を待った。 「お願いします」  私が白いカバーのかかったシートに体を沈めると、運転手はドアをしめ、前のドアから入って車をスタートさせた。 「いってらっしゃいませ」  女中さんが私を送った。  車は文珠《もんじゆ》堂の横を抜けると、ゆっくり左折した。回転橋を渡って天の橋立の中へ入るのである。昼間自転車を借りた茶店も、今はしらじらとした月明りの中に戸をしめている。  溝《みぞ》か何かがあったようで、車は一度ふわりと大きくはずんだ。私はクッションのいい車の中でいったん宙に浮き、またシートに沈んだ。  そのショックで一瞬目をとじたらしい。気がつくと松の間の道をぞろぞろと人が歩いている。車はクラクションを引っきりなしに鳴らして、その人波を掻きわけるようにのろのろと進んで行く。 「そんなに鳴らさないでくれよ」  私は観光客たちに気兼ねして運転手に言った。みんなが歩いている中で、何だか特権階級然としていて嫌《いや》だったのである。 「そんなことを言ったって、鳴らさなければこいつらはどきませんよ」  運転手は不服そうに答える。 「そりゃそうだろうけどさ」 「じゃあ鳴らさないで走って見ますか」  言うやいなや、運転手はアクセルを強く踏み込んだ。同時に車は人波の中をかなりのスピードで突っ走りはじめる。 「危《あぶ》ない」  私は前のシートに手をあてて叫んだ。ドン、ドン、とボデーに人の当たる音が続き、そのたびに女や子供がはねとばされていた。 「やめろ。とめてくれ」 「そうは行きませんや」  運転手はたけだけしく言い、とめる気配もない。 「やめろ。人殺しめ」 「嫌なら降りるんですね」  畜生め、ひどい態度なのだ。私は疾走する車のドアをあけ、転《はず》みをつけてとび出した。  ころころと何度かころがった揚句に顔をあげると、その車は砂塵《さじん》を巻きあげながら遠のいて行った。 「タロちゃん。しっかりおし」 「あ……」  私は、自分を抱き起してくれた人の顔を見て言った。 「叔母さん」 「危ないことするもんじゃないよ」  叔母さんは立ちあがる私の服についた砂を払ってくれながら言う。 「それに、駄目じゃないのさ。風邪を引いてるのに外へ出たりしちゃ。おかあちゃんはどうしたの。留守《るす》なの……」  私は一瞬、叔母さんが私の女房のことを言っているのかと思った。 「おかあちゃん……」  だがすぐ、あ、そうか、と思い直した。 「お袋は元気だよ」 「そう。そりゃよかったねえ」 「俺《おれ》はもう子供じゃないんだぜ」 「判ってるよ。だってお前、おかあちゃんのことをお袋だなんて言うしさ」  叔母は笑った。 「随分久しぶりだなあ」 「そうだねえ」  私たちは人ごみを外れ、松林の中へ入った。 「でも、熱を出すとあの夢の中で、叔母さんの声は聞けたよ」 「そうだろうさ。あたしが呼んであげてたんだもの」 「一度うちへ来ないかい」 「何しにさ」 「何しにって……お袋に会ってやってくれよ」 「でも、山の手のほうへ引っ越しちゃったじゃないか」 「でも東京は東京さ」 「三軒茶屋の先なんて、ありゃもう東京じゃないよ。それよか、うちのほうへおいで」 「近いのかい」 「すぐこの先さね。ついといで」  叔母は歩きはじめた。 「天の橋立だなんて、しゃれたとこに住んでんじゃないの」 「何がしゃれてるもんかね。相変わらずだよ」  トン、トトン、トン……。  太鼓の音が近付いて来る。 「あれ……」  私は足をとめて耳をすませた。 「触れ太鼓じゃないのかい、あれは」 「そうさね」  向こうから二人が太鼓をかつぎ、その両脇《りようわき》に一人ずつ、合計四人の男たちが歩いて来た。 「ご苦労さんです」  叔母は軽く頭をさげてその横を通り抜ける。 「ジイちゃんと双葉山を見に行ったなあ」  私が言った時、叔母はその先の角を曲がった。 「ここだよ」  大きなマンションの入口であった。 「へえ、マンションに住んでるの」 「いいからお入り」  叔母はマンションの入口の自動ドアを通って中へ入った。私もあとに続く。 「いいのかい、あがって」  長い簀《す》の子《こ》が置いてあって、叔母は下駄《げた》を脱ぐとその下駄を手に持った。 「変な子だよ。遠慮なんかしちゃってさ」 「別に遠慮なんかしてないけど」  私も靴を脱いだ。簀の子は歩くたびにガタンガタンと音を立てた。  長い簀の子の突き当たりに下駄箱があった。叔母はまず自分の下駄をその中へしまい、私の靴も入れてくれた。 「何階……」 「八十四階さ。さあ、これをはいて」  白い鼻緒の草履《ぞうり》を寄越した叔母は、エレベーターのドアをあけると、私と一緒に中へ入った。壁にはボタンが一個しか付いていなかった。そのボタンには、84という数字が書いてある。  叔母が手を出す前に、私がそのボタンを押した。エレベーターは昇りはじめる。私たちは八十四階へ着くまで、小さな箱の中で黙って立っていた。  戸があく。とたんに砂埃《すなぼこり》のまじった強い風が吹きつけて来た。「ちぇっ、相変わらずだな」  外は土の道だった。乾いている。 「八百屋の角を曲がるんだったね」 「となりがパン屋だよ」  叔母と私は古びた二階屋がびっしりと並ぶ道を進んで、八百屋の角で横丁へ入った。 「もうここでおしっこをしちゃ駄目だよ」  八百屋にそって細い溝があり、私は少年時代、家の便所でするより、その溝へ小便をすることのほうがずっと多かった。それも八百屋の土台石である黄ばんだ大谷石の同じ場所を狙って。 「へこんでやがら」  私はうれしくなって笑った。のべつ同じ場所を狙って小便をしたのは、その黄ばんだ大谷石をへこませようとしたからである。柔らかい大谷石は私の長年の立小便のおかげで、小さな窪《くぼ》みができていた。 「ただいま」  二階だての五軒長屋の一番とっつきの戸をあけて叔母が言った。声がうきうきしている。 「誰をめっけて来たと思う……」 「お客かい」  ジイちゃんの声であった。ジイちゃんは叔母の連れあい。叔父《おじ》ちゃんと言うべきところが、なまってジイちゃんだ。 「ほら、見てみな」  叔母は障子《しようじ》をあけてジイちゃんに得意そうに言った。 「お、タロちゃんじゃねえか」 「ごぶさたしてます」 「何だってまたこんな不意に……」 「講演旅行でね」 「ほう、そいつは大変だな」 「そいで、風邪引いちゃったのよ」 「まあ、しゃあねえやな。とにかくよく来た。突っ立ってねえで坐《すわ》んなよ」 「うん」  私は長火鉢《ながひばち》にジイちゃんと向き合って坐った。向こう側に付いている抽斗《ひきだし》の一番下に大黒さまの貯金箱が入っていて、ときどき私はそこから一銭銅貨を一、二枚くすねていた。  それを思い出して心をうずかせていると、 「茂さんに教えてやったほうがいいんじゃねえかい」  とジイちゃんが叔母に言った。 「茂さん……」  私は戸惑った。 「あ、そうか」 「こいつ、てめえのおやじの名も忘れちまったのかよ」  ジイちゃんが笑う。 「どこにいるの」  茂とはたしかに私の父の名だが、私は同じ名を自分の息子につけている。だから一瞬混乱したのだ。 「百二階だ」  ジイちゃんはお茶をいれながら言う。 「今、何してる」 「町会の役員だ」 「へえ……」 「お袋はどうしてる」  お袋という呼び方は、実はその叔父から学んだ言葉なのであった。 「元気だよ」 「そうかい」  ジイちゃんの言い方は素っ気なかった。 「行って来るね」  叔母はそう言ってまた外へ出て行った。父に私が来たことを知らせに行ったのだろう。 「相変わらず、釣《つ》りをやってるの……」  ジイちゃんが猫板《ねこいた》の上に置いた茶碗《ちやわん》にお茶をついでくれるのを見ながら私は言った。 「やってるよ。茂さんと一緒にな」 「あの時のパイナップルはおかしかったな」 「パイナップル……」 「そうだよ。木場の先のほうへ釣りに行ってさ、パイナップルの絵が描いてある罐詰《かんづめ》をあけたじゃないか」 「そうそう」  ジイちゃんは笑い出した。 「そんなことがあったっけな。罐をあけたら何にも実が入ってねえんでやがんの」 「今考えると、あれはジュースの罐だったんだね」 「うん、そうらしい。ところがお前、こっちはパイナップルの絵がけえてあっからよ、てっきり中身が腐ってとけちまったんだと思うじゃねえか」 「でも二人で飲んだね」 「そりゃそうよ。舶来の罐詰だしさ。勿体《もつたい》ねえもんな」 「で、あとで梅干しをしゃぶったっけ」 「そう。あたっちゃいけねえってんで、毒消しさ。ばかなもんだったなあ」 「戦争前のことだもん」  私はそう言ってお茶を啜《すす》った。 「いろんなことがあったなあ」  ジイちゃんも感慨無量といった面持である。 「この辺りだってお前、空襲で丸焼けんなっちまってさ」 「ひどかったなあ」 「三月十日よ」  私は家の中を見まわした。その家も、昭和二十年三月九日から十日にかけての空襲で、灰になってしまった筈であった。 「あ……」  私はジイちゃんを見つめた。 「何だ」 「どうしてこの家《うち》が残ってるの。八百屋もパン屋も、五軒長屋も」 「どうしてって言ったってお前」  ジイちゃんは困惑した顔になって口をつぐんだ。 「連れて来たよ」  叔母が戻って来た。 「太郎が来たって……」  渋く低い声。 「あ、お父さん」  父はどてらを着ていた。 「とうとう来たか」  昔と同じように、父の表情は私にとって読みにくかった。ブスッとしたような顔で立っている。 「ごぶさたしました」  私は坐り直し、畳に手をついて頭をさげた。 「母さんより先にお前が来たか」  父はがっかりしたように言って坐った。 「嫁は……」 「ええ、結婚して子供が二人」 「俺も二人だった。お前と浩二とな。でも、お前には長生きしてもらいたかったんだぞ。俺はお前たちを残して早くに死んじまったからな」 「はい。精々長生きするよう心がけます」 「…………」  ジイちゃんと叔母、叔母と父の順で三人は顔を見合わせる。 「お前、今変なことを言ったな」  代表のかたちで父が尋ねた。 「は……」 「精々長生きするよう心がけるったって、もう死んじまったものをどうするんだ」 「死んで……俺、まだ死んじゃいないよ」  私は叔母を見つめた。みるみる叔母の顔色が変わる。 「よして。何を馬鹿言ってるのよ。タロちゃんは死んで……」  ジイちゃんが怒鳴った。 「お前まさか」  叔母はどやされて縮みあがる。 「だってあたしゃ、この子が死んだからこっちへ来たんだとばっかり」 「俺、死んでない」  私も我を忘れて喚《わめ》いた。 「冗談じゃねえぞ、こいつは」  父は腕組みをした。 「いけねえ、俺、こいつにお茶を飲ませちゃった」  私は長火鉢の猫板の上にある飲みさしの茶碗を見た。  ヨモツヘグイ。  私の頭にその言葉が谺《こだま》した。古来、黄泉《よみ》の国のカマドで煮たきしたものを食うことは、タブーとされている。死者の仲間に入って二度と現世《うつしよ》には戻れなくなるのだ。 「どうしよう。お茶を飲んじゃった」 「お前がいけねえんだ」  ジイちゃんが、叔母をまた大声で叱りつけ、 「とりけえしのつかねえことをしてくれた」と、何とも無念そうにつぶやく。 「茂さん、ごめんなさい」  叔母は父に向かって両手を合わせた。父は腕組みをして唸《うな》っている。 「ごめんなさい。本当にごめんなさい」  叔母にたて続けに言われて、父はやっと腕組みを解いた。 「すんじまったことは仕方ねえよ。しかし、まだお茶だけだし、それもほんのひと口だ」  叔母は私を縁先へ連れて行って、 「吐いちゃいな。指突っ込んでさ」  と背中を叩く。私はゲエゲエと喉音《こうおん》をたてさせた。 「よし、何とかやって見よう。太郎、ついて来い」  父は立ちあがった。 「子供たちはまだ小さいんだろう」 「五つと三つ」 「死なせるわけには行かないな」 「家のローンだって残ってるし、書きたい小説もまだたくさんある」 「とにかく区役所へ行こう」 「よし、俺が自転車を借りて来る」  ジイちゃんは飛び出して行って、すぐに自転車を二台引っぱって来た。 「早くしたほうがいいぞ」  私と父は自転車に乗った。区役所なら道は判っている。私たちは競争するように自転車で突っ走った。 「助役の前田さんを呼んでください」  区役所へ着くと、父は受付の男に大声で言った。土地では少し顔がきくのだ。すぐ助役がやって来た。 「間違えてまだ死んでないのにお茶を飲ましちゃったんだ。これは俺の倅《せがれ》なんだよ。何とかしてもらえないか」  父の気迫は凄《すさ》まじかった。 「いつ……」 「ついさっきだよ」 「厄介だな。第一それは区役所じゃ扱わない」 「警察か」 「そうなんだ」  助役はちょっと思案し、すぐに言った。 「署長と話をつけてみる。でも、いつまでもここに置いといたら話はこじれるばかりだな。この子が来たとこへ戻したほうがいい」 「頼んだぞ」  父は片手拝みにそう言うと、私を連れてまた自転車に乗った。 「どこへ行くの」 「エレベーターのところだ。とにかくここを出なければな」  昔なつかしい入り組んだ路地から路地を走り抜け、私たちはエレベーターのところへ着いた。  ボタンを押すとすぐドアがあく。 「来た時、外の様子は……」 「天の橋立だったよ」 「叔母さんは若い頃宮津の辺《あた》りにいたことがあるんだ。それでちょいと戻って見たんだろう」  回想していたということらしい。 「そこでお前にぶつかって、話がこんがらがっちまったんだな」  エレベーターが下へ着いた。 「履《は》き物を間違えるな」  父に念を押され、私はよくたしかめてから靴をはいた。お茶でさえいけないのに、黄泉津革靴《ヨモツカワグツ》なんぞ履いた日には、とうてい戻れない。  父は下駄を履いた。ガタガタと二人で履き物のまま長い簀の子の上を走り、自動ドアから外へ出た。  昼になっていた。 「来た時は夜だったよ」  私は途方にくれて言った。 「かまうことはない。行って見よう」  父と私は昼の道を駆け出した。一本道がどこまでも続いていた。 「駅だ」  父が叫んだ。前方に国鉄の駅があった。 「間に合うかも知れねえぞ」  二人は全力で疾走した。  さいわい、私たちが着くまでに、その駅を通過した列車は一本もなかった。 「ここまでは何とかなったな」  小さな駅の待合室へ飛び込んだ父は、私を見て言った。しかしまだ緊張した表情のままであった。 「汽車が来るまでに間に合うかどうかだ」  父は改札口の上にある時刻表を睨《にら》みつけていた。  私は何もかも父にゆだねて、案外平静でいた。何とかなるという気持が強かった。 「いいなあ、おやじって」 「ん……何か言ったか」 「おやじがいるってのはいいもんだと言ったんですよ。子供としては寄りかかってればそれでいいんだもの」 「すまなかったな、早くに死んじまって」  父は私が小学校へ入ったその春に死んでいる。 「だから長生きしろよ。お前の番なんだからな」 「うん」 「息子に俺と同じ名を付けたんだってな」 「そう。お袋は父さんの名前を呼びつけにしてよろこんでる」  父は苦笑した。 「俺の孫たちに寄りかからせてやってくれ。長生きしてな」 「そうするよ」  その時、オート三輪がバタバタとやって来た。 「あ、来たぞ。炭屋の車を借りて来やがった」  父の顔がパッと明るくなった。助役がオート三輪から飛びおりて駅へ駆け込んで来るのと、列車がホームへ入って来たのが同時だった。 「切符、切符」  助役がそう叫んで小さな切符を私にくれた。 「早く行け。母さんを大事にしてやれよ」  父が叫んだ。 「さよなら」  私は改札口で駅員に切符を切らせながら言った。  リーン、と発車のベルが鳴る。 「いいおやじになれよ」  私は列車のステップに足をのせた。蒸気機関車《エス・エル》がシューッと太く蒸気を吐いた。 「風邪引くな」  父が叫ぶ。 「飲みすぎるな」  私は手を振ってこたえた。ガタンと列車が動き出す。 「女遊びもほどほどにな」  父は動き出した列車に向かって、両手を口にあてて叫んだ。 「さよなら」  シュッ、シュッ、ポッポ、と、その列車は妙に切ない音をたてて加速して行く。  駅が遠のき、父も見えなくなった。  私は列車の中へ入り、通路を後尾へたどりながら自分の席を探した。  グリーン車の一番うしろに、山口瞳さんと江藤淳さんの姿があった。二人は文春の豊田さんと喋っており、私はとなりの席でうとうとと居眠りをしていた。 「戻れた」  私はほっとして私のところへ行った。私と私はひとつになり、私は居眠りからさめた。「コーラ、いかがです」  文春の浅見さんが言った。見なれたコーラの罐が私の目の前に突き出されていた。 「風邪を引いたみたいだ」 「改源、飲んだんでしょう」 「ええ」 「国立A型にはきかないんですかね」  浅見さんはニヤニヤしていた。  次の目的地は城《き》の崎《さき》である。いいお天気が続いていた。 [#改ページ]   セルーナの女神  私はガラス戸をあけてベランダへ出た。東に向いたベランダは、まだ十時を少し過ぎたところなので、春の陽射《ひざ》しをまともに受け、眩《まぶ》しい程《ほど》であった。  そのマンションの七階に部屋を借りて仕事場にしてから、もう丸二年たった。自宅は東へ歩いて十二、三分のところにあり、毎朝九時になると家を出て仕事場へ向かうことにきめていたのだが、しだいに徹夜仕事が多くなって、何日もぶっ続けにこの七階の部屋に籠《こも》ることが多くなってしまった。そのうちに転居の話が持ちあがり、わが家は逆に西へ歩いて十五分ほどの所へ移った。  しかし私が仕事場へ籠る時間はますます多くなって、今では家で寝ることができるのは、月に二日か三日になってしまっている。だから私はまだ新しい家に慣れることができず、帰ってもどのスイッチでどの灯《あか》りがつくのかよく憶《おぼ》えていない始末なのだ。そのかわり仕事場のほうは着慣れた服のようにしっくりと身についた感じで、外の通路に響く靴音で、それがどの家のドアをあける人のものか、見当がつくほどになっている。  でも、近頃はそれを少し哀《かな》しく思うようになった。歩いて十五分の所にある自分の家が、ひどく遠い場所のように感じてならないのだ。いや、家ばかりではない。これまで自分が歩んで来た道からも、遠く離れてしまったような気がする。  来る日も来る日も小説を書き続け、電話のベルが鳴ればそれは締切りが迫ったという警告か、或いは原稿の催促にきまっている。そのたびに私は更に遠い所へ押し出されて行くようだ。 「おい、お前はいったい、こんな所で何をしているんだ」  私は春の光のさすベランダに立って、際限もなく続く家々の屋根を眺《なが》めながらそうつぶやいた。徹夜の疲れが背骨のあたりにかたまっている感じで、煙草《たばこ》の吸いすぎのせいだろうか、喉《のど》のあたりが重苦しかった。  ずいぶん遠い所へ来てしまった。何かにつけてそんな風に感じる日々であった。自分が本来の自分を置き去りにしてしまったようなのだ。  小説を書く……つまり想像の世界を駆けめぐるという点では、かなり激しい日々であるのだが、世間的に言えば来る日も来る日も机にかじりつく単調な生活なのである。そのことが、私にこの奇妙な孤独感をもたらしているに違いなかった。そういう意味では、近頃の私は穴ぐらにとじ籠って祈り続ける呪術師《じゆじゆつし》に似ていた。文字を書くこと以外何もせず、それでいてあくる日には麓《ふもと》の村から穴ぐらの入口へ供え物が届けられている。祈る以外何もしないのに、毎朝その結果が穴ぐらの前に置かれるのだ。  もう少し何とかならないものだろうか。  私はベランダの手すりにつかまって下を見た。マンションのとなりは幼稚園で、子供たちが甲高い声で歌をうたっていた。  幼稚園の庭には桜の木があって、ちょうど満開であった。子供たちの歌声を聞き、桜の花を眺めていると、私の心の中に何かが湧《わ》きあがって来た。  私はその湧きあがって来たものを、はっきりとした形にまとめようとした。ひどく懐《なつ》かしいものだったからである。  しかし、それが何であるかはっきりと把握《はあく》する前に、入口のブザーが鳴った。  来客の予定はなかった。今書いている原稿を渡すのは、明日の午後という約束になっていたから、仕事のことで訪ねて来た客ではなさそうだった。  私はベランダから部屋の中へ入ると、仕事机の脇《わき》を通って入口のドアの錠を外《はず》した。  錠の外れる音と同時に、外からドアが引きあけられた。二十六、七だろうか。色白で背の高い男が遠慮がちに私の名を言った。 「はい、そうですが……」  心当たりがないので、私は不審に思いながら相手をみつめた。 「あの……実は僕、やとわれているだけなので」  青年は口ごもりながら言った。それは突然の訪問を詫《わ》びているようであった。 「外国人が二人、あなたに会いたいと言っているんです」 「ほう……外人さんがですか」  ますます心当たりがなかった。しかし何か期待のようなものがあった。好奇心と言ってもいい。 「会ってやっていただけますか」 「いいですよ」  すると青年の顔によろこびの表情が泛《うか》んだ。 「助かった」  そう言って私に笑顔を向けた。 「で、その人は……」 「エレベーターの所に待たせてあります。何しろ変わった人たちで、いきなりここへ来そうな勢いだったもんですから」  青年はそう言い、 「あ、僕は山下と言います」  と、あわててつけ加えた。 「人たちって、一人じゃないの……」 「二人です」 「待たせては悪いよ。お呼びしてください」  そう言うと、山下という青年はハイと答えて小走りにエレベーターのほうへ戻って行った。私はドアを大きくあけ放し、部屋へ戻ってコーヒー・メーカーに水をさし、客を迎える仕度をした。 「失礼します」  すぐに入口で山下の声がした。 「どうぞ」  私はそう言い、キッチンのところから入口をのぞいて見た。  びっくりした。外国人と言うから、白人だとばかり思っていた。別に理由はないのだがそう思い込んでいた。しかし、山下のあとに続いて、ぎごちなく靴を脱いでいるのは黒い肌《はだ》の人であった。  漆黒の肌にちぢれた髪、そして背が低かった。  矮人《わじん》か。  私は瞬間的にそう思った。それほど背丈が低かったのである。私は日本人としてもだいぶ背が低いほうだが、その私とくらべても、二人は更に低かった。私の鼻くらいの高さしかない。しかし、二人とも体にぴったりと合ったスーツを着て、どちらも同じ柄の赤いネクタイをしていた。  その一人が山下に何か言った。凄《すご》い早口であった。山下が手を左右に振って拒否のジェスチャーをした。 「はじめまして」  これは難物だぞと覚悟をきめながら、私は笑顔を二人に向け、叮寧《ていねい》に頭をさげた。すると二人も深々とお辞儀を返した。 「坐るように言ってください」  私は山下にたのんだ。山下はやはり早口で二人に何か言った。 「何語なんですか」 「ツワナ語です」 「ツワナ語……」 「ベチュアナランドのあたりで使われている言葉です」  そう言われてもよく判らなかった。 「ベチュアナランド……」 「カラハリ砂漠《さばく》のあたりだと考えてくだされば」  山下は気の毒そうな目で私を見て言った。 「ああ、カラハリ砂漠ね」  私は頷いたが、アフリカ大陸の西南部だったかな、という程度のことしか頭に泛ばなかった。 「セシェレさんにマウンさんです」  山下は二人を私に紹介した。名を言われるたびに、一人ずつ軽く頭をさげる所などは万国共通で心強かったが、どちらがセシェレでどちらがマウンか、すぐに判らなくなった。同じような丸顔で、年齢の見当もつかないのだ。 「あの……」  私は山下に遠慮がちに尋ねた。 「カラハリのほうから来たと言うと、藪《やぶ》の人……」  ブッシュマンという呼び方が失礼に当たるのではないかと思ってわざとそう言ったのだ。  山下は笑って首を左右に振った。 「身長が低いからそう思われたんでしょうが、二人はブッシュマンではありません」  私は頷《うなず》いて見せた。 「この二人は自分たちをマンダ族だと言っています」 「ほう……」  ほう、ともっともらしく言ったが、マンダ族なんて聞いたこともない。 「で、ご用件は」  私ははっきりと二人に顔を向けて尋ねた。それがツワナ語というのだろう。あの物凄い早口で、やたらにチェッ、チェッと舌打ちのような音の入る言葉が、山下と二人の間でやりとりされた。 「僕のツワナ語も大したことはありませんが、この二人も普段はマンダ語を喋《しやべ》っていて、ツワナ語はあまりうまくないんです」  山下は弁解するように言ってから、 「要するにこの二人は、あなたに女神を返してくれるように頼んでいるのです」  と通訳してくれた。 「女神……」  私は目を剥《む》いた。とたんに一人がソファーから腰をあげ、 「セルーナ、セルーナ」  とやけに胸を張って言った。 「セルーナ……」  私は山下をみつめた。 「女神の名前ですよ」  山下は苦笑している。 「セルーナの女神か」  私も苦笑するより方法がなかった。二人は山下のほうを向いてかわるがわるツワナ語で喋った。山下はそれを適当な所で手をあげてやめさせる。 「セルーナの女神は彼らにとって非常に大切な神なのです。それがいなくなってしまったので、ここへ取り戻しに来たんですが、別にあなたが悪いのではないんだと言っています」 「驚いたねえ、まったく」  私はぼやいた。 「セルーナの女神なんて知らないよ、俺《おれ》は。カラハリどころかエジプトへさえ行ったことはないし、マンダ族なんてはじめて聞く名だよ」 「そうでしょう。彼らの言うことは僕にもよく理解できないんです。ただ、僕の先生があっちのほうへ調査に行っていまして、現地では彼らの協力がないとだめらしいんです。それでこの二人の面倒を見るように言いつかりましてね」  山下は自分の立場を私に判らせたいようであった。 「セルーナの女神というのは、どういう神様なんです」  私はそう尋ねた。またツワナ語のやりとりがあって、山下が通訳してくれた。 「昼と夜の神だそうです」 「昼と夜……」  何のことかさっぱり判らなかった。 「マンダ族というのは、ブッシュマン同様、アフリカにおける最古の種族に属しています。マンダというのは、どうやら彼らの言葉で人間という意味らしいのです。ブッシュマンが岩壁画を残していることは有名ですが、マンダ族は絵ではなく彫刻をします。木彫が多いのであまりよく保存されず、古いことはよく判らなかったのですが、数千年前にかなり高度な文化を持つ王国を作っていたらしいことが、最近になって判《わか》りました。僕の先生もその学術調査団に加わっているのですが、マンダ族の時間の観念は非常にユニークで、学者にもまだはっきりとは説明できないのですが、セルーナはその時間に関係する女神らしいのです」 「時間か」  昼と夜、と言った意味が判った。しかし私にとって謎《なぞ》は深まるばかりであった。二人のマンダ族の紳士は、きちんと坐って無表情に私をみつめていた。 「で、そのセルーナの女神がいなくなったというのは……」 「偶像のことですよ」  山下は真面目《まじめ》な顔で言った。 「マンダ族は彫刻する種族なのです。それに極端な多神教で、何にでも神様がいるのです。そしてその神様の姿を何千年も彫り続け、その偶像を中心にして日常のすべてのことが行なわれるそうなのです。僕もそうくわしくないのですが、最高神はサルロ神といい、これは神を作る神のことなのです」 「サルロ……」  私がつぶやくと、二人のマンダ族は、おごそかな声で、 「サルーロ」  と言った。 「マンダ族は今まで自分たちの世界になかったもの……たとえば自動車なら自動車に接すると、サルロ神にたのんで自動車の神様を作ってもらいます」 「神様が神様を作ってくれるのか」 「祈るんです。この辺の考え方がわれわれとちょっと違うんですが、つまり彫刻する種族ですからね。新しい神の姿をどんなかたちにするか、まあわれわれですとアイデアをねるという作業をするわけですが、それを祈りとごっちゃにしてしまっているんですよ」 「なる程、考えることと祈ることは似ているからな」  私は感心したが山下はそういうことはあまり関心がないようであった。 「で、セルーナというのは、そういう無数の神々の中でも一番古くからある、サルロ神の妻に当たる女神なのです。マンダは一夫多妻ですから、妻の一人ということになりましょうか」 「それにしても、よほど重要な神様らしいね。わざわざアフリカから探しにやって来るんじゃ」 「ええ。時の女神と言っても、これがまたいろいろありまして、夜の時間、昼の時間、夢の時間など」 「夢の時間……」 「ええ。どういうことかよく判りませんが、主観的な時間をさしているそうです」  私は俄然《がぜん》マンダ族が好きになった。日夜くり返される客観的な時間のほかに、主観的な時間経過を神の形で把握しているのなら、すばらしい連中だと思った。 「セルーナは不合理な時間のシンボルなのです」 「というと……」 「ちょっとむずかしいんですけど、よく僕らは理不尽な目にあったりしますね。たとえば、自分にはまったく責任がないのに、他人の失敗や不注意のまきぞえをくって酷《ひど》い目にあうとか」 「それがセルーナのせいになるのか」 「ええ。マンダ族はそれを、原因がまだないうちに結果が発生したと考えるのです」  私は思わず口笛を吹いた。すると意外にもマンダの紳士たちは陽気な笑い声をあげた。理由は山下にも判らないようだったが、口笛はマンダ族にとって愉快なことらしい。 「自分がまだ犯さない失敗の結果が先に来てしまうわけか」 「そうなんです。セルーナの女神はそういうことをつかさどっているらしいのです」  二人は笑顔で、 「セルーナ、セルーナ」  としきりに頷いて見せた。 「マンダ族のお祭りがあって、神々の像がその祭りの場所へ運ばれて行く途中、一人の子供がセルーナの女神像を旅行者に売ってしまったのです。盗んだとかいうのではないらしく、間違えて売ってしまったんだそうです。何しろ神様の数がやたらに多いもので、子供には旅行者向けの作品と見分けがつかなかったらしいんです」 「それがどうして俺のところに来ているんだ」 「さあ」  山下は頼りなく首を傾《かし》げた。 「二人はそのセルーナの女神をとり戻すために日本へやって来たんだろう」 「ええ、そうなんです。そして、こっちへ着いて案内役の僕に会ったとたん、あなたの名前を言ったんです」 「最初から知っていたのか」 「そうなんです。空港へ出迎えたら、いきなりあなたに会わせろと言って」 「変な話だなあ。あっちに誰か俺を知ってる人がいたのかな」 「それがはっきりしないんです。来る途中でも散々尋ねたんですけど、セルーナの女神の行先は判っていると言うだけで、なぜそれがあなたなのか、説明してくれないんですよ。ひょっとすると、彼らには説明できないのかも知れませんね」 「なぜだい」 「神様から教えてもらったんじゃないんですか」 「ま……」  まさか、と言いかけて私は口をつぐんだ。アフリカのカラハリ砂漠のどこかにいる神様が、日本国東京都世田谷区世田谷三の十一の八の……と、正確に私の住所をマンダ族に教えている所を想像したら、馬鹿馬鹿しいのを通り越して何だか空恐ろしくなって来たのである。 「ここへ来る途中と言ったけど、空港から……」  私は別の質問をした。 「ええ」  山下は首をすくめている。 「いきなりここへ来たのか」 「せっかちなんですよ。とにかく任務が先だというような調子でしてね。これからホテルへ行くんです」  ホテル、という言葉を聞いたからだろう。マウンだかセシェレだかよく判らないが、一人がツワナ語でまくしたてた。 「あなたがセルーナの女神を返してくれるまで、ホテルで待っていると言っています」 山下が通訳した。 「困るよ君」  私は本当に困ってしまった。 「ここにはセルーナの女神なんてない。俺は持ってないんだよ」  山下が私の言葉を二人に伝えた。するとまた一人が喋った。ニコニコと寛大な笑顔を私に向けていた。 「返してくれるまで待つと言ってます。急がないそうです」  するともう一人も微笑を泛べ、ポケットから一万円札の束を掴《つか》み出して私に示した。 「金はたくさんあるからいつまででも待っていられる」  山下はその男の言葉を気の毒そうな顔で通訳してくれた。 「知らないよ、俺は」  私は拗《す》ねたように言うしかなかった。  気がつくとコーヒーが沸いていた。私は席を立って三人にコーヒーをいれてやった。すでにコーヒーの味は知っているらしく、二人のマンダ族は左手に受皿を持ち、意外に品よくそれを飲みおえると、二人同時に立ちあがって握手を求めて来た。 「サラセンテ」  それくらいなら私も知っていた。さようならという意味だ。 「サラセンテ」  私もそう言って二人と握手した。小さいが厚くて堅い手であった。  セルーナの女神。  私の頭からそれが消えないで困った。ホテルへ押しかけて行ってマウンとセシェレに会いたい気もしたが、雑誌の締切りがいくつも重なっていてそんな暇はなく、ただセルーナの女神のことばかり考えていた。  そういうことは原稿を書く邪魔になる。私は催促の電話のたびに、セルーナの女神のことを頭の隅《すみ》へ追いやって、何とか無事にその時期を切り抜けた。  しかし、仕事場のソファ・ベッドで仮眠をするたびに、セルーナの女神が夢に現われるのには参った。現物を拝んでいない私にはどんな姿か判らず、要するに妖艶《ようえん》な女が現われて、自分はセルーナであると名乗るだけであったが、それだけでも充分にうなされるのだ。  さいわいなことに、山下からもそれ以来何の連絡もなく、日がたつにつれて私は何かからかわれているような気がして来た。  誰かがタチの悪いいたずらを仕組んだのではあるまいか。疑えば、そういうことをやりそうな冗談好きの友人はいくらでもいた。  どう考えてもばかげているのだ。それで、ちょっと暇ができた時にアフリカ関係の書物を十冊ほど引っぱり出して調べて見たのだが、たしかにマンダ族というのは、ベチュアナランドのあたりに存在しているようだった。ベチュアナランドの首都はガベロンで、地図を見るとケープタウンから鉄道線路が一本、ガベロンへ通じている。  ンネ、オツァ、ンナニ。1、2、3という意味の数詞である。ブッシュマン同様、マンダ族もその三つの数詞しか持っていないと書いてある本もあったが、一万円札の束を示したセシェレだかマウンだかの顔を思い泛《うか》べると、ちょっとその記述は信じ難かった。  山下が言っていたように、マンダ族については判りはじめたばかりで、その本が書かれた頃はブッシュマンの一支族のように思われていたのではあるまいか。  またもし、数詞が三つしかなく、3以上はすべてケイ……つまりメニーという言葉であらわしてしまっているとしても、だからと言ってマンダ族の抽象化能力が劣悪だとは言い切れないだろう。それはいろいろな時間の形態を神格化していることで判るし、セルーナのような、原因の前に結果が来てしまうようなことまでも考え出す力があることでも証明できるはずであった。  ひょっとすると、マウンとセシェレという二人のマンダ族と親しくなった奴《やつ》が、日本のえらい人に会わせてやるとか何とか嘘《うそ》をついて、私をからかったのかも知れない……。  あまりにも話が私好みなので、そんな風に疑い、黙っていれば今に向こうが我慢し切れなくなって、自分から正体をあらわしてくるだろうと、たかをくくることにきめた。何しろチンプンカンプンのツワナ語だから、通訳しだいでどんな好き勝手な会話でも成立させられるのだ。  私はまた新しい作品にとりかかり、だんだんにセルーナの女神のことを冗談だときめこんで行った。  相かわらずの仕事場ぐらしが続いていた。気が向くとふらりと一、二時間近くを散歩する程度で、ろくに外出らしい外出もしないから、人恋しくて仕方がなくなった。  そんな時、井崎正人から突然電話がかかって来た。 「もしもし」  あまり元気がいいとは言えぬその声を聞いたとき、これは昔の友達だと直感した。はっきりと聞き憶《おぼ》えのある声だったのだ。 「誰だい」  私は胸をはずませて言った。 「俺だよ。判る……」  とたんに鼻の先が痺《しび》れた。 「井崎か。井崎だろう」 「よく判るな」 「こん畜生め。生きてたのか」  井崎は中学の同級生だった。しかし、そんな親友というほどの間柄ではなく、グループも違っていた。 「会いたいなあ」  井崎が言った。昔通り、感情のはっきりしない声であった。 「来いよ。お前と別れてから、俺はビリッカスの苦労ばかりしてたんだ。もう二度と俺のそばからはなさねえぞ」  井崎は受話器の向こうで笑った。  私は劣等生だったが、成績が一度も最下位にならずにすんだのは、ひとえに井崎のおかげであった。試験で私がどんなに縮尻《しくじ》っても、井崎はいつも私より実に悪い点をとってくれたのだ。  私は中学から高校まで、井崎を見るたびに、このビリッカス、と言ってからかった。そう言える特権を持っていたのだ。私は下から数えて二番目の生徒だったのである。 「行っていいか」 「来い。すぐ来い」  私は性急に仕事場への道順を言った。井崎に会えるなら、締切りなんか糞《くそ》くらえだと思った。  二時間後、井崎は本当に仕事場へやって来た。昔通りののっそりとした態度だった。 「小説書いてるって聞いて、へえ、と思っちゃったよ」  井崎は仕事場の中を見まわしながら言った。 「びっくりしたろう、大穴だもんな。俺が一番びっくりしてんだぞ」 「そうだろうな」  井崎はニコリと笑ってくれた。  いい気分だった。毛ほども飾らずにすむ相手だった。 「俺、ブティックをやってんの」 「へえ、しゃらくせえことをしてんだな」 「それで儲《もう》けた」  たしかに金まわりがよさそうだった。 「でも、お前のがやっぱりかっこいいや。お前は二番だよ」  今でもビリから二番目だと言ってくれるのだ。 「当たりめえだ。お前になんか負けてたまるかい」  ウフフ……と井崎も楽しそうだった。今はそれなりに地位も責任もあるのだろうが、私と会って私同様に、昔の気楽な気分に戻っているらしい。 「でも、よかったよな」  井崎は私をみつめて言った。その目がお互い劣等生の、二十五年間の苦闘を語っていた。 「うん、よかった」 「お互いにな」  井崎は右手を出した。それをきつく握りしめて、私たちはふと涙ぐんだ。 「馬鹿だね、相かわらず」  井崎がその涙をはぐらかすように笑った。 「馬鹿でよかったんだ」 「お前に褒美《ほうび》やろうと思ってさ」 「ビリッカスにもらうのか」 「頭からでもケツからでも、一番は一番だい」  井崎はそう言い、持って来たボストン・バッグのファスナーを引いた。 「こないだアフリカ旅行から帰って来たばかりでさ」 「へえ、洒落《しやれ》たことしやがる」  そう言った私は、ドキリとした。  井崎は木彫りの像をバッグから引っぱり出していた。おっぱいが突き出していた。 「セルーナ……」  そうつぶやいたが、井崎は気にも留めず、 「こういうの、好きじゃないかと思って」 「お前、それをどこで手に入れたんだ」 「ガベロンの近くさ。近くと言ってもだいぶ離れてるけど、でかい土地だからね。カラハリ砂漠の南のほうだよ」 「誰から買ったか当ててみようか」 「うん」 「子供だろう」 「あ、当たった。どうして判ったの」 「知るけえ」  私はセルーナの女神を受取って喚《わめ》いた。それはもう、セルーナの女神に間違いなかった。 「こんなことがあるのかよ」  私はそれをだいて都心のほうを見た。東京タワーが見えていた。そのすぐ下のホテルに、マウンとセシェレが待っているのだ。 「あいつら、結果を先に知ってやがった」  自分が住んでいるこの世界が、何だかひどく頼りなく思えた。 「井崎、車で来たんだろう」 「ああ」 「今からすぐ俺を乗せてホテルへ行ってくれ」 「どうするの……」 「何でもいい。わけは途中で教えてやる」  私はそう言うと、大急ぎで服を着がえ、靴をはいて仕事場を出た。  ホテルで、セシェレとマウンは井崎と一面識もないことが判った。  しかしそれにしても、その二人がきまりきった事のようにセルーナの女神を受取った態度は、いっそ見事としか言いようがなかった。 「そういうこともあるさ」  セルーナの女神を返したあとで、井崎はいかにも劣等生らしく、鈍い表情でそう言った。 「こういうことは、成績のいい奴らには判らないんだよ」 「その通りだ」  私たちは肩をならべてロビーを横切り、駐車場へ向かった。 「今夜は飲もうぜ」  私が言うと、 「俺もそのつもりさ。でもその前に俺の店を見て欲しいな」  井崎はそう言いながら自分の豪勢な外車のほうへ歩いた。  井崎の店は思っていたよりずっと大きくて立派だった。 「学校の成績なんてメじゃねえや」  夜になって酒が入ると、井崎は急にしゃっきりとしてそう断言し、尻《しり》をつき出してあの女神像の真似《まね》をすると、 「妾《わらわ》はセルーナ」  そう言って大笑いした。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『セルーナの女神』昭和54年12月10日初版発行